メイン

London アーカイブ

2007年02月21日

テームズ川にそって    Southwark

きょうは大変良い天気ですので、午前中テームズ川にそって自転車で散策してきました。サザーク地区は、私にとっては、最初に親しんだ所で、こちらに足が向いてしまいました。地図で見るとテームズ川は随分と蛇行してますが、サザーク( Southwark) は、ロンドンの南東になります。
london.jpg
thames%20walk.jpg

サザーク地区は昔から、シテイー(旧市街)への供給地、シテイーの禁じられているものが許可されている所で、昔から「飲む、打つ、買う」の、悪名高い所で、つい最近までサザークというと、近寄らない方が良いとされてきた地区ですが、この頃はすっかりファッショナブルな所として、何だかすっかり雰囲気が変わっています。そういう訳で、私がロンドンで一番親しんできた所をご案内しましょう。


ロンドン・ブリッジ駅から、テート・ブリテンという現代美術館までのテームズ川散策出発!

IMGP0279.jpg
ボロー・マーケットの肉屋。おじさんの山高帽にもご注目

ロンドン・ブリッジ( London Bridge ) の駅で降りて、まずはボロー・マーケット (Borough Market) 。ここは、ロンドン最古の青果市場で1276年の記録があります。10年前は、仕入れの為だけの市場でしたが、今は一般の人向けの、おしゃれな食品市場に変身。ロンドンで一番質の良い食品が買えるマーケットとして有名になっていますので、グルメの方は是非訪れてみて下さい。私の家の近くからも蜂蜜屋さんが出てます。我が家の裏庭の花からも蜜取っているのかな等と想像すると楽しいです。スナックやレストランもありますので、見るだけでは物足りない方は味見も楽しんでくださいね。

IMGP0300.jpg あれ、こんな所にポール・スミス?昔は、まともな物も買えない所だったのに、こんなおしゃれな店ができてるのでびっくり。変われば変るものですね。それにしてもどしゃ降りが突然やってきました。

IMGP0294.jpg
ジョージ・イン ( George Inn )

さて、ここは、川べりではなく、ボロー・ハイ・ストリート (Borough High Street)にありますが、サザークではとても重要な場所です。パブは数知れずあるロンドンですが、ここは由緒あるパブ、「ジヨージ・イン」 George Inn 。今の建物は1676年でナショナル・トラストの管理下にありますが、歴史はもっと古く、このテラスで「ロミオとジュリエット」が上演されたりしたのですよ。聖ジョージはイングランドの守護聖人ですので、真ん中の旗は、サッカーのイングランド・チームと同じなのに気がつかれましたか?ここで、イングランドの地ビール「ビター」を飲んでみてはいかがでしょう。味は少々苦く、アルコール分低め、生ぬるいのが特徴ですが、嫌な方は「ラガー」をどうぞ。これは、日本のビールのようにきりっと冷やしています。

IMGP0296.jpg
ホップはケントの特産。今はオフィスと店だが、昔はホップ関係の建物の飾り。

ビールに欠かせないのが、苦味をつけるホップですが、サザークはホップの大きな取引所がありました。この地区はロンドンの南東にありますので、ホップの産地であるケントから近いので、ここで取引されました。ビール醸造は臭いので嫌われたようで、シテイー内でより、ここで作られたそうです。


IMGP0309.jpg
グローブ座。すべて16世紀当時と同じ作り方で建設。

エリザベス1世女王の頃までは、演劇は人心をかどわかすという事で、おおっぴらにはできなかったのですが、この女王は劇が大好きでしたのでおおいに発展しました。グローブ座は最初はシェークスピアとリチャード・バーベージが1599年につくり、1644年には消滅しています。しかし、アメリカ人俳優のサム・ワナメーカーが心血を注ぎ、シェークスピアの時代と同じ形に、1990年再建したものが今建ってます。彼は建築途上で亡くなっていますが、彼の努力なしにはこの劇場はなかったでしょう。1988年の竣工式には、私も地域民として硬いコルセットの16世紀の衣装で参加し、まだ建築がはじまる前から見ていますので、感情移入します。毎年、夏には毎晩、シェークスピア劇を中心に16世紀と同じようにマイクも使わず、衣装も昔と同じで上演します。私は、観劇の前に岩波文庫日本語訳を読んでから見に行きます。安いのは立見席で、舞台にかぶりつき可が、5ポンドで、当日でも買えますので、足に自信のある方はどうぞ。


IMGP0316.jpg
ミレニウム・ブリッジ 200年記念橋

グローブ座からちょっと歩くとテームズ川にかかるミレニアム・ブリッジが見えてきます。とても薄い感じで、しかもシャープな緊張感もある2000年記念の橋ですが、女王がオープニングした後あまりにも沢山の人が歩き、強風が吹き、揺れが激しかったものですから「揺れる橋」という汚名を被り、補強されて4年後再オープンしたものです。テームズ川の水位が低くなると、ケルトやローマ時代の宝物が出てこないかと、探す人もいっぱい。


IMGP0317.jpg
テート・モダーン内部。入ってすぐのタービン・ホール。


テート・モダーン (Tate Modern)いつも疑問を投げかける作品で悩ませてくれる、正に芸術的美術館。でも、特別展のらせん状のものは、最上5階からのすべり台で、すごい悲鳴が常に聞こえるホラー芸術。これは、4月9日迄展示。現代美術館です。元々は火力発電所だった建物を、美術館にしたものです。この巨大な建築は、スペースを要する現代アートに最適。


IMGP0340.jpg
ウインチェスター・ハウスの壁。なんでこんな所にあるの?昔は、このバラ窓にステンドグラスが入っていて、そして、この建物の中では、あんな事が起こっていて・・・と想像すると楽しい。


サザークには、ウインチェスター司教の館がありましたが、1629年年以降は、力を失い売ってしまいました。倉庫になり、あげくの果ては新しい建物の一部になって、隠れてしまっていたのですが、1814年の火事の際出現。なかなか感動的です。

ガイドブックにはあまり登場しないサザークですが、いかがですか。傘をお忘れなく!

2007年03月06日

グリニッチ旧天文台 The Old Royal Observatory  

IMGP0403.jpg
ブラック・ヒースの丘の上の天文台。昔はここから星を見た。とても見晴らしがよい丘です。

グリニッチ天文台というと、「世界標準時」と、「子午線」があることで有名ですね。先週、散歩に行ってきました。なぜ、”旧”天文台というかと申しますと、空気が汚れたりして、1949年に場所が移され、現在は博物館のみに使われているからです。天文台は1675年に、天体観測によって海上の船の位置を正確に求める研究の為に作りました。海外進出の為に必要だったのですね。屋根のてっぺんに赤いボールがあるのが見えますか?これは、19世紀のものですが、航海前の船に午後1時をしらせて経度を正確にあわせる為だそうです。今も同じに1時に落下しますが、現在の私達には、お昼ご飯の合図にちょうどいいです。

IMGP0409.jpg

IMGP0412.jpg

この線が子午線です。この上に立つと東経と西経をまたぐことになります。観光客はここで必ず写真撮らなくちゃ。最初は、勿論私も撮りましたよ。ここが、経度0度に決定されたのは1884年のワシントン国際子午線会議で、同時に世界の標準時となりました。

詳細はhttp://www.nmm.ac.uk をご覧下さい。

2007年03月07日

ロンドンの夜景2ヶ所  St Mary Abotts and Piccadilly Circus

IMGP0463.jpg
3月5日。ケンジントン・ハイ・ストリートにある教会セント・マリー・アボッツ前の花屋。無表情な石をバックに、この花のいきいきとした色。

IMGP0491.jpg
3月7日。ピカデリー・サーカスの「エロスの像」周辺。ここが一番人が行き来する交差点。

2007年03月18日

タイルが張られた美しい部屋。レイトン・ハウスにて。 Leighton House

SAVE0013.jpg

ケンジントン・ハイ・ストリートを外れた閑静な住宅街にフレデリック・レイトンという画家の家が、博物館となっていて一般公開されています。

彼は1830年生まれで、父は医者でお金持ち。小さい頃から海外の生活多く、絵画もベルリンで習い、その後フィレンツエやフランクフルト、ブリュッセルやパリにも住み、教養と語学力に優れ、25歳の時、始めてロイヤル・アカデミーに出品した作品がヴィクトリア女王が買ったのを始めとして、49歳でロイヤル・アカデミーの会長、騎士叙勲。69歳で亡くなる1年前には画家としては始めての新年の名誉ある人々に選ばれ、男爵位を授けられたという、成功した画家です。

レイトンは、この家を建てる前に、ドラクロアのアトリエを訪ねており、自分の家も、きちんとしたアトリエと、エンターテイメントやアーテイストとの交流に適するものにしようと考えたらしいです。35歳の時に建てはじめ、完成しても幾度となく改造、増築を行っています。でも、寝室は自分用の狭いベッドがあるだけという家で死後、売れませんでした。

さて、沢山ある部屋の中でも私が特に気にいっているのは、「アラブ・ホール」と呼ばれる、びっしりタイルを張りめぐらした部屋で、アラブの国を旅して、すっかり気に入ったシシリーのパレルモにある12世紀の宮殿がアイデアの源泉になっているそうです。このタイルは、ダマスカスの廃墟などから持ってこられた16世紀ころのものや、インダス川沿いのイスラム教の墓などからも来た千枚ほどの古いタイルに、ウイリアム・デ・モーガンという陶芸家が、上手に補足して完成させたものです。

SAVE0015.jpg

真ん中で静かに噴水が水を動かすだけの、この部屋の窓の傍のカウチで寝そべって、たった一人で本を読んだらどんなに幸せでしょう。読んでる内に眠くなって夢はアラビアン・ナイトみたいにきれいな色がついていそうです。訪ねる度に叶わぬ夢を見てしまいます。


レイトン・ハウス・ミュージアム Leyton House Museum(今回の写真はガイドブックのスキャン)
www.rbkc.gov.uk/leightonhousemuseum

2007年04月21日

イースト・エンドを歩く East End Walk

IMGP0881.jpg
ギルバート&ジョージの住むフォーニー通り Fournier St で見つけた、すてきな青。

先週うろついたロンドン東部。昔から、ロンドン中心地の外でアナーキーな場所。17世紀には、カソリックのフランスから,逃げてきたプロテスタントが住み着き、絹織物をしていた所。19世紀には東ヨーロッパのユダヤ人迫害で逃げてきたユダヤ人街。20世紀後半は、バングラデシュからのカレー屋が軒を並べるところ。そして今は、現代アートのギャラリーがいっぱい。

IMGP0901.jpg
ブリック・レーン Brick Lane は、ブリック=レンガを作ってた所らしい。そこが、19世紀おわりからユダヤ人の通りで、このようなベーグル屋が2軒ある。ここのソルト・ビーフ(塩漬ビーフをゆでたもの)キャラウエー入りパンのサンドイッチや、1個8ペンスのベーグルは、イスラエルから来た人でもおいしいという本格派。

IMGP0893.jpg
しかし今は通りの名前もこのように、バングラデシュ語も書いてある。行った日は金曜日だったので、イスラム教の礼拝日とあり、男性信者がモスクへと急いでいた。でも、この通りの名を見てください。クエーカー通り。19世紀はじめまでは、認められていなかった宗派。とにかく、イースト・エンドは、いつの時代も何となく異端の匂いがする。

IMGP0888.jpg
そして最新のアートギャラリーではこのとおり。この調子ではイースト・エンドは、形は変わってもレベルの伝統だけは、いつまでも残りそうだ。

追記;ブリック・レインは、レンガを作っていた訳ではなく、ロンドン大火(1666年)の後、レンガを運搬するのに使った道だった・・・と、資料にあり訂正します。

2007年05月07日

プリンスレット・ストリート19番地(その1) 19 Princelet Street

IMGP1120.jpg
右手に人が集まっているのが19番地。

昨日は、イースト・エンドのプリンスレット・ストリート19番の家が一般公開されるというニュースを知ったので、見に行ってきた。この家は、1719年にフランスから亡命してきたプロテスタントの絹織物職人のオギアー家 Ogier family が住んでいた家ということで、是非300年前の工房など見たいものだと心待ちにしていたのだが、中に入って自分の期待が全く方向違いであることを知った。

中は荒れており、壁は漆喰が落ち配管も露出したり、階段もでこぼこ、床も不安定で、所々金属の柱でつっかえ棒にしている。どおりで、入場制限していた筈だ。床にはトランクが置いてあったり、糸巻きがあったりして、壁には解説が書いた紙が貼ってある。この家も含めてのイースト・エンドの移民の歴史の解説だった。

解説には・・・

フランスのプロテスタントを「ユグノー」と呼ぶが、17世紀に50万人も亡命してきた。彼等は職人多く、絹織物、銀細工、精密機械や時計職人、商人などで、イギリスの工芸の発展に多いに貢献。しかし、イギリス人は自分達の生活が脅かされると思い、同業者組合も反対したり、迫害して追い出そうとするが、彼等の技を失いたくない人びと多く、結局政府や王も永住を許可。彼等は成功して、貧民層の多いイーストエンドから出て中産階級の街へと移る。

アイルランド人も19世紀中ごろ、この辺りに住みテームズ川の倉庫に働きにいったようで、彼等は低賃金、重労働に反対の運動をこのイースト・エンドで組織したとある。その後の行方は書いていない。

そして、19世紀終わり頃の東ヨーロッパのユダヤ人迫害(「屋根の上のバイオリン弾き」はその話でしたね)で沢山のユダヤ人がここに住み、繊維関係の仕事を主にする者多く、ミシンの音がそこかしこで聞こえた。彼等もイギリス人から邪魔者扱いされた。特に国民党から実際に暴力を受けた者も沢山いたそうだ。しかし彼等も教育をつけ、成功してこの辺りから出て行った。

バングラデシュからの移民は、1960年頃から始まり今は彼等の街となっている。例として、ブリック・レインのモスクは、最初1743年ユグノーの作ったキリスト教会で、1898年にはユダヤ教のシナゴーグとなり、現在モスクになったのは1976年だそうだ。

最後がソマリアの内戦の亡命者が増えてきていて、現在1万人ということが書いてあった。実はこの家は「移民博物館」にしようという計画のようだが、資金が足りなく、一般に知らせて興味を持ってもらおうとの企画のオープンデーだったのだ。

SAVE0035.jpg

家は3階と地下室だが、一階の奥が小さなユダヤ教のシナゴーグになっていた。1階の部屋を庭に続けて増築したらしく、荒れてはいるが、美しい。地下室は国民党から仲間を守る為に使われたそうだ。

SAVE0034.jpg
絵葉書の写真

まあ、私の期待していたものを見れなかったが、それなりに興味深く、出る所で絵葉書を買おうと思って見てびっくり。3階の部屋は入れなかったが、その部屋の写真で、散らかし放題の汚い部屋。この写真、忘れもしない、何年も前に新聞に載っていて強烈な印象を与えられた。この話は次回書きたいと思う。長くなりそうだから。

2007年05月09日

プリンスレット・ストリート19番地(その2) Rodinsky'r Room

SAVE0033.jpg
この部屋は屋根裏部屋らしく天井が低い。ユグノーが住んでいた頃は天窓を作って織物をする際、光がたくさん入るようにしていたそうだが、彼等が去った後天井を貼ったと解説にある。

さて、帰宅してからインターネットで調べると、この部屋の写真を新聞で見たのは、1999年5月の「ガーデアン」Guardian で、リキテンシュタインとシンクレアーの共著で「ロデンスキーの部屋」という本が出版されるので書かれた記事だった。

この最上階の部屋は1969年に鍵がかけられ、住人であるデビット・ロデンスキー David Rodinsky は忽然と姿を消した。それから15年ちかくほっておかれたが、開けてみると、今でも彼が住んでいるような状態で部屋は残っていた。半分飲みかけて乾いてしまった紅茶のカップ、コンロには料理しかけの朝食のオートミール、ベッドも出たばかりで、枕には頭の窪みも残り、グラモフォン、読みかけの新聞、ユダヤ教のカバラについての本や、その他の本も15カ国語にわたるものだった。それから、興味深いのは、ロンドンの地図が本になっている「A-Z」で、ロンドン郊外の街から街にマークをつけてあった。又、新聞の切り抜きと、飴の包み紙を一緒にスクラップ・ブックに貼ってあるものもあった。

この写真と話で興味をそそられた人は多いらしく、上の二人は、ロデンスキーの生い立ち、行方を調査して本を書くに至ったのだ。それによると、彼はウクライナ移民の息子で1925年生まれ。父母は、1880年にユダヤ人が25000人も殺されるという事態からの亡命移民で、一家は最初、プリンスレット・ストリートからすぐのハンブリー通りに住む。彼が7歳の時、プリンスレット通り19番地に引っ越してきて、家族全員亡くなった後も、彼はずっとここに住み続けた。しかし、ユダヤ教の礼拝所の屋根裏部屋に住むのだから、管理人のようなことを家族はしていたのかもしれない。

彼等の調査によると、ロデンスキーは、1969年に44歳でサリー精神病院で死んでいる。きっと、鍵がかけられたのは、病院に連れ出された時なのだろう。

SAVE0036.jpg
「ロデンスキーの部屋」のフランス語訳出版の新聞記事(リベラシオン)を英訳したもの

この「A-Z]は、上の著者であるリキテンシュタインに強い印象を与え、自分の生涯を「A-Z」に置き換え、人生を、彼女の祖父母、両親から自分、そして著作中に生まれた息子にと続ける。デヴィド・ロデンスキーの名を貰い息子をデヴィドとし、彼への冥福、再生へと話をもっていった。なぜなら彼女の祖父母も同じく、ウクライナからの難民だったから。

又、ノーベル賞をもらった劇作家のハロルド・ピンターの「管理人」Care Taker も、ロデンスキーの影響があり、主人公は口癖のように「シドカップへ行ったらねえ・・・」と、行ったこともない郊外の住宅街を自分のいるべき場所とし、現実の屋根裏は仮の場所のように言うのである。これも「A-Z」が持つイマジネーションからだろう。

それだけではなく、この写真の印象は現代美術のインスタレーションにも影響を与えたのでは?と思ったりもする。ひとつひとつの物の持つ、ある人の歴史。

さて、私が絵葉書の写真を見て興味をそそられたのは、実はこの写真を新聞で見るずっと前に夫から、「シナゴーグの屋根裏に住む、奇妙な男」の話を聞いていたからである。

彼は学生で60年代、貧しいユダヤ人の為のボランテイアをしていて、「今まで見たこともないほど汚い部屋」を掃除しにいったらしい。数人でペンキも塗ってあげたそうだが、本人は嫌がっていた、とにかく、臭い汚い何年も掃除なんてしたことがないような状態だったという。夫は、この男は伝統的ユダヤ教の格好していて好きになれなかった、言動がおかしいので頭が変だった、後から聞く話によると、国民党から道で袋叩きにされ病院に連れて行かれた・・・、どうなったかな?死んでしまったかな?という話で終了していた。

それが1999年、新聞の写真でプリンスレット・ストリート19番地とあったので、夫も驚き、「こんなに本なんてなかったよ、15カ国語もしゃべれるとは思えないけど・・・、頭おかしかったんだよ」と話していたのだ。きっと彼が行った時は本を売り払っていたのかもしれない。シナゴーグには女の人がいて、彼女が管理人のようだったとも言う。ロデンスキーは頭がおかしいから、哀れなので置いてあげていたのだろうか。

現在、このガラクタは、発見後ロンドン博物館 Museum of Londonで保管され、又現地に戻されたのだそうだ。ここが、移民博物館になったら再び、元の「今まで一度も見たこともない程汚い部屋」に復元されるかもしれない。その時は是非見たいと思っている。

2007年08月17日

キングス・クロス駅 King's Cross Station

IMGP1809.jpg

キングス・クロス駅は、1830年から15年間ジョージ四世の銅像が近くにあったので、そういう名前がつけられたという事ですが、1852年完成の当時最大の駅で、北に行く汽車が出ました。でも安く作ったそうで、隣接するセント・パンクラスの装飾性の高い建物に比べると、確かにそうかな・・・と思えますが、機能的でかえって現代的な美しさを感じます。上の写真のプラットフォームは、映画の「ハリー・ポッター」では9 3/4プラットフォームとして使われました。以前は親切に写真を撮る人を切符なくても入れさせてくれていましたが、今は危ないので禁止です。

IMGP1819.jpg
堂々たる駅。鉄骨のスパンが大きくて立派です。写真を撮ったのは朝のラッシュ時。

IMGP1813.jpg
行き先を見ると1番上がエデインバラで、行きたくなってしまいました。夏は特に旅行客で込み合ってます。

IMGP1822.jpg
駅のほうも、ハリー・ポッターのお客さんを喜ばせようと苦肉の策。こんな壁をこしらえて写真撮影をさせています。これは駅が拡張してあって、新旧駅の間に作ってあります。これなら、はしゃぐ子供がいくら飛び跳ねても事故は起こりませんね。この写真は私のかわいいお客様たち。嬉しそうでしょう?

About London

ブログ「来て!見て!イギリス-ブルーバッジ・ガイドのロンドン便り」のカテゴリ「London」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のカテゴリはLetters from Londonです。

次のカテゴリはMuseum & Galleryです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35