ダリッチ美術館
私はダリッチ・ギャラリーの日本人ハウスガイドです。小さいながら、17、18世紀にかけての絵画では有名な美術館です。1999年の改築工事の間は、東京、広島、福島、大阪、山梨、愛知で、展示いたしましたので、ご覧になった方も多いでしょう。緑いっぱいで、ここまで足を延ばせば、すっかりカントリー・サイド気分。是非、お越しください。

壁はピンク、絵もびっしりと掛けてあり、ヴィクトリア風です。ベンチも、ジョン・ソーンのデザインです。
絵所を栗焼く人に尋ねけり
これは,夏目漱石が明治34年の日記にしるしたダリッチ美術館訪問時の俳句です。ロンドン中心より約8キロ南西に位置し、Victoria駅より鉄道で11分、駅から徒歩15分位ですが、夏目漱石の同日の日記に書いてあるように「・・・此辺ニ至レバサスガノ英国モ風流閑雅ノ趣ナキニアラズ」と、今も変わらず静かな郊外にあります。ダリッチ美術館は英国最古の公共美術館で、ナショナル・ギャラリーよりも13年も早い1811年に創立されています。
ポーランド王立コレクション
美術館が始まったきっかけがとてもユニークなのです。1790年にポーランド王が、国の美術発展のためにと、ロンドンで活躍している2人組のアートデイラーのノエル・デザンファンとフランシス・ブルジョアーに絵画の買い付けを注文します。彼らはこの注文に5年もかけました。ところが、ポーランドは隣国に占領され、王は廃位、そして亡命へと追い込まれ、大量の絵が彼等の手に残ってしまいました。売却もままならず、デザンファンの死後、ブルジョアーに譲渡された絵画は遺言によりダリッチ・カレッジに寄付されました。遺言には、これらの絵画は一般の人が見れる美術館を建てそこに展示する事、美術館の設計は当時最も斬新なジョン・ソーンがする事、美術館内部には、6人の身寄りのない老女の為の住居を付属させる事、又、同じく内部に創立者としてこの2人組とデザンファンの妻の霊廟も作る事。この驚くべき指示に設計家のソーンは興奮し、ブルジョアーの死の翌日、早速ダリッチを訪れ、現地で構想を練り始めました。彼はこれを無料で設計しました。現在でも美術館のモデルとされ、ロスアンジェルスのゲッテイ・ミュージアムやナショナル・ギャラリーのセーンズベリー館に影響を見ることができます。特に天窓のつくりが独創的で、直射日光を柔らげ、絵を見やすくしています。現在6個の老女の為のアパートメントは隣接する旧ダリッチ・カレッジの建物に移転されておりますが、今だに最初の意志どうり慈善施設として活躍しています。又、3人の霊廟は美術館の中心にあり、ひっそりと死と再生を表現する空間を創出しています。これは今だに謎なのですが、4つの棺があり、ひとつは空なのです。ジヨン・ソーンが自分の為に作ったのかも知れません。

このふたりが、ポーランドの王様から頼まれて絵を買い集め、その絵がこのギャラリーの元となっています。いねむり中がブルジョア、帽子被ってるのがデザンファン。
ダリッチ村
ダリッチの大部分は今もダリッチ・カレッジの土地です。1619年にシェークスピアと同時代の有名な役者、マネージャー、熊いじめ等の娯楽施設で多大な富を成したエドワード・アレインがダリッチの荘園を5千ポンドで買い、貧しい6人の姉妹、6人の兄弟、そして12人の学者の為にThe College of God's Gift(神から授けられた学校)を建設しました。彼は子供がおりませんでしたので、全ての財産をこの学校に残しました。今、この学校は、有名私立校として知られており、建物は美しい新ゴシックに、名前もダリッチ・カレッジと変わっていますが、最初はこうやって始まったのです。現在、美術館はカレッジから独立していますが、今も美術館の回廊から続くチャペルには、寛大なアレインと妻が眠っています。
美術館の周囲はダリッチ・ビレッジと呼ばれ、漱石も賞賛したすばらしい公園があります。パブやしゃれたカフェ、ちいさなお店等の集まる散策にぴったりの場所です。
コレクション
最初は約350枚の絵画でしたが、今は650枚位あります。18世紀の好みを反映してバロックのものが多く、集中的に楽しむ事ができます。
1600年代から1750年位までのヨーロッパ美術は実験的で、大胆で、異なる社会のクロスオーバー等から多様性が出てきた時代で、それらが万華鏡のように展示されているのです。例えば南では今だカソリックで、教会や金持ちの為の宗教画が多く、公共に見せる為の熱狂的、宗教的プロパガンダや、大きなサイズ等が特徴ですが、北では偶像崇拝をしないプロテスタントが台頭し、肖像画や、日常生活を題材にしたり、風景や静物を小さな額絵にして一般の人々に売りました。又、それら南と北が行ったり来たりで、混ざり合ったりもしたのです。
ローマは、永遠に芸術家にとってのヨーロッパ文化の基であり、すべての芸術家を魅了しました。オランダの画家は、イタリアの金色の光と過去の栄光の証である遺跡などを描いて自国に持ち帰り、Dutch-Italianate(イタリア的オランダ風景絵画)というひとつのジャンルを作りました。低地の、曇った天気の多いオランダを、青空や陽光、遺跡、切り立った山岳等、絶対にありえない事象を空想で取り入れ、その風景の中で、大変オランダ的な牛をのんびりはべらせたりしているのですが、北の人々の太陽へのあこがれ、古代文化への畏敬等が感じられます。

アルバート・カイプ 「牛飼い達と牛」 1660 オランダ
フランスからローマに行ったプッサン Nicholas Poussin、クロード Claude Lorrainのふたりは、時には一緒にスケッチをしたりした友人ですが、風景を正確に観察し、古代社会が残した偉大な足跡である遺跡を尊敬をもって描き、クロードはそこに物語を挿入した風景画を描き、後の風景画の流行の発端を作りました。プッサンは古典彫刻、ラファエロやカラッチの絵等から絵画の構造を研究し、その後フランス芸術の本流となる新古典主義の基を作りました。

ニコラス・プッサン 「リアルドとアルミダ」 1628-30、ローマ
本国イタリアのレニ Guide Reni、フランドルのルーベンス Peter Paul Rubensの誇張された肉体は迫力を感じます。レンブラント Rembrandt Harmebsz van Rijnの3枚の肖像画は、画家が26才、39才、57才の時のもので、彼がいかに光と質感を描くのに情熱を傾けていたのかを異なる時代の光と陰、絵の具の厚さや筆のタッチの変化などから感じとることができます。

レンブラント 「窓辺の少女」 1645、オランダ
ギャリーで一番の人気娘で、よく貸し出しでいなくなってしまいます。
17世紀の英国は他の国よりも絵画においては遅れていました。しかし18世紀は有名な肖像画家が出ます。そのひとりのレノルズ Joshua Raynoldsの「悲劇のミューズに扮するシドンズ夫人 Mrs Sarah Siddons」は漱石も言及しています。「十八世紀は一面にクラシカルな世である。・・・所が今言ふ肖像画は決してクラシカルな題目ではない。レノルズは此中間に立って巧みに此の二者を調和して彼の画を時勢に応じる程のクラシカルなものにしたのである。」レノルズはモデルに古典的な衣装を着せ、物語や神話の登場人物のように肖像画を描く事で人気を博していました。同時に人気のあったゲーンズボロ Thomas Gainsborough の描いたリンリー家 Linley の人々は彼の友人家族でもあり、自然な、ゆったりした、暖かさのある肖像画で、現代に通じる感情のこもった絵です。

ジョシュア・レノルズ 「悲劇のミューズを演じるシドンズ夫人」 1784頃
有名な画家としては上記のほかに、バン・ダイク Van Dyck、ムリリョ Murillo、ワットー Watteay、テイエポロ Tiepolo、カナレット Canaretto等、約350枚を展示しております。
おわりに
このちいさな、おもしろい美術館の後ろに回りますと、霊廟の上に屋根が飛び出ているのが見えます。この屋根を見たスコットというデザイナーはインスピレーションを得て、今はたまにしか見えないですが、イギリス名物の赤い電話ボックスのデザインをしたのです。ロンドン滞在中に、静かなダリッチに是非足を伸ばして下さい。大きな公園 Dulwich Park や、森 Dulwich Wood を散歩したり、ビレッジでパブに行ったり。でもダリッチ美術館をお忘れなく!美術館は月曜日はお休みです。詳しくはホームページをご覧下さい。
www.dulwichpicturegallery.org.uk
住所
Dulwich Picture Gallery
Gallery Road, Dulwich Village,
London SE21 7AD
電話
020 8693 5254
FAX
020 8299 8700












