« 2007年04月 | メイン | 2007年06月 »

2007年05月 アーカイブ

2007年05月04日

マロニエの木

IMGP1050.jpg
ウインザー城のマロニエ。

この季節、マロニエの花ざかりで、おおきな花が咲いている。イギリスは、木をあまり短く剪定しないので、のびのびと大きく伸びている。マロニエというのは、フランス語で、実は英語ではHorse Chestnut と言う。直訳すると「馬の栗」。うわー、さえない!という訳で私はもっぱら「マロニエ」とエレガントな音で呼んでいる。

IMGP1039.jpg
花は、このように藤が立ったような感じで、こちらでは、シャンデリアとか蝋燭台を想像するらしい。とても立派な花です。

IMGP1035.jpg
友達のフラットの窓から見た赤いマロニエ。すばらしく美しい。

おおきな木ですと10階建てのビル位もの高さで、花が霞のように見え、まったくこの季節しかない美しい自然の被造物で、感動します。もう、人工美を凌駕する自然の美に圧倒されるのです。

2007年05月07日

プリンスレット・ストリート19番地(その1) 19 Princelet Street

IMGP1120.jpg
右手に人が集まっているのが19番地。

昨日は、イースト・エンドのプリンスレット・ストリート19番の家が一般公開されるというニュースを知ったので、見に行ってきた。この家は、1719年にフランスから亡命してきたプロテスタントの絹織物職人のオギアー家 Ogier family が住んでいた家ということで、是非300年前の工房など見たいものだと心待ちにしていたのだが、中に入って自分の期待が全く方向違いであることを知った。

中は荒れており、壁は漆喰が落ち配管も露出したり、階段もでこぼこ、床も不安定で、所々金属の柱でつっかえ棒にしている。どおりで、入場制限していた筈だ。床にはトランクが置いてあったり、糸巻きがあったりして、壁には解説が書いた紙が貼ってある。この家も含めてのイースト・エンドの移民の歴史の解説だった。

解説には・・・

フランスのプロテスタントを「ユグノー」と呼ぶが、17世紀に50万人も亡命してきた。彼等は職人多く、絹織物、銀細工、精密機械や時計職人、商人などで、イギリスの工芸の発展に多いに貢献。しかし、イギリス人は自分達の生活が脅かされると思い、同業者組合も反対したり、迫害して追い出そうとするが、彼等の技を失いたくない人びと多く、結局政府や王も永住を許可。彼等は成功して、貧民層の多いイーストエンドから出て中産階級の街へと移る。

アイルランド人も19世紀中ごろ、この辺りに住みテームズ川の倉庫に働きにいったようで、彼等は低賃金、重労働に反対の運動をこのイースト・エンドで組織したとある。その後の行方は書いていない。

そして、19世紀終わり頃の東ヨーロッパのユダヤ人迫害(「屋根の上のバイオリン弾き」はその話でしたね)で沢山のユダヤ人がここに住み、繊維関係の仕事を主にする者多く、ミシンの音がそこかしこで聞こえた。彼等もイギリス人から邪魔者扱いされた。特に国民党から実際に暴力を受けた者も沢山いたそうだ。しかし彼等も教育をつけ、成功してこの辺りから出て行った。

バングラデシュからの移民は、1960年頃から始まり今は彼等の街となっている。例として、ブリック・レインのモスクは、最初1743年ユグノーの作ったキリスト教会で、1898年にはユダヤ教のシナゴーグとなり、現在モスクになったのは1976年だそうだ。

最後がソマリアの内戦の亡命者が増えてきていて、現在1万人ということが書いてあった。実はこの家は「移民博物館」にしようという計画のようだが、資金が足りなく、一般に知らせて興味を持ってもらおうとの企画のオープンデーだったのだ。

SAVE0035.jpg

家は3階と地下室だが、一階の奥が小さなユダヤ教のシナゴーグになっていた。1階の部屋を庭に続けて増築したらしく、荒れてはいるが、美しい。地下室は国民党から仲間を守る為に使われたそうだ。

SAVE0034.jpg
絵葉書の写真

まあ、私の期待していたものを見れなかったが、それなりに興味深く、出る所で絵葉書を買おうと思って見てびっくり。3階の部屋は入れなかったが、その部屋の写真で、散らかし放題の汚い部屋。この写真、忘れもしない、何年も前に新聞に載っていて強烈な印象を与えられた。この話は次回書きたいと思う。長くなりそうだから。

2007年05月09日

プリンスレット・ストリート19番地(その2) Rodinsky'r Room

SAVE0033.jpg
この部屋は屋根裏部屋らしく天井が低い。ユグノーが住んでいた頃は天窓を作って織物をする際、光がたくさん入るようにしていたそうだが、彼等が去った後天井を貼ったと解説にある。

さて、帰宅してからインターネットで調べると、この部屋の写真を新聞で見たのは、1999年5月の「ガーデアン」Guardian で、リキテンシュタインとシンクレアーの共著で「ロデンスキーの部屋」という本が出版されるので書かれた記事だった。

この最上階の部屋は1969年に鍵がかけられ、住人であるデビット・ロデンスキー David Rodinsky は忽然と姿を消した。それから15年ちかくほっておかれたが、開けてみると、今でも彼が住んでいるような状態で部屋は残っていた。半分飲みかけて乾いてしまった紅茶のカップ、コンロには料理しかけの朝食のオートミール、ベッドも出たばかりで、枕には頭の窪みも残り、グラモフォン、読みかけの新聞、ユダヤ教のカバラについての本や、その他の本も15カ国語にわたるものだった。それから、興味深いのは、ロンドンの地図が本になっている「A-Z」で、ロンドン郊外の街から街にマークをつけてあった。又、新聞の切り抜きと、飴の包み紙を一緒にスクラップ・ブックに貼ってあるものもあった。

この写真と話で興味をそそられた人は多いらしく、上の二人は、ロデンスキーの生い立ち、行方を調査して本を書くに至ったのだ。それによると、彼はウクライナ移民の息子で1925年生まれ。父母は、1880年にユダヤ人が25000人も殺されるという事態からの亡命移民で、一家は最初、プリンスレット・ストリートからすぐのハンブリー通りに住む。彼が7歳の時、プリンスレット通り19番地に引っ越してきて、家族全員亡くなった後も、彼はずっとここに住み続けた。しかし、ユダヤ教の礼拝所の屋根裏部屋に住むのだから、管理人のようなことを家族はしていたのかもしれない。

彼等の調査によると、ロデンスキーは、1969年に44歳でサリー精神病院で死んでいる。きっと、鍵がかけられたのは、病院に連れ出された時なのだろう。

SAVE0036.jpg
「ロデンスキーの部屋」のフランス語訳出版の新聞記事(リベラシオン)を英訳したもの

この「A-Z]は、上の著者であるリキテンシュタインに強い印象を与え、自分の生涯を「A-Z」に置き換え、人生を、彼女の祖父母、両親から自分、そして著作中に生まれた息子にと続ける。デヴィド・ロデンスキーの名を貰い息子をデヴィドとし、彼への冥福、再生へと話をもっていった。なぜなら彼女の祖父母も同じく、ウクライナからの難民だったから。

又、ノーベル賞をもらった劇作家のハロルド・ピンターの「管理人」Care Taker も、ロデンスキーの影響があり、主人公は口癖のように「シドカップへ行ったらねえ・・・」と、行ったこともない郊外の住宅街を自分のいるべき場所とし、現実の屋根裏は仮の場所のように言うのである。これも「A-Z」が持つイマジネーションからだろう。

それだけではなく、この写真の印象は現代美術のインスタレーションにも影響を与えたのでは?と思ったりもする。ひとつひとつの物の持つ、ある人の歴史。

さて、私が絵葉書の写真を見て興味をそそられたのは、実はこの写真を新聞で見るずっと前に夫から、「シナゴーグの屋根裏に住む、奇妙な男」の話を聞いていたからである。

彼は学生で60年代、貧しいユダヤ人の為のボランテイアをしていて、「今まで見たこともないほど汚い部屋」を掃除しにいったらしい。数人でペンキも塗ってあげたそうだが、本人は嫌がっていた、とにかく、臭い汚い何年も掃除なんてしたことがないような状態だったという。夫は、この男は伝統的ユダヤ教の格好していて好きになれなかった、言動がおかしいので頭が変だった、後から聞く話によると、国民党から道で袋叩きにされ病院に連れて行かれた・・・、どうなったかな?死んでしまったかな?という話で終了していた。

それが1999年、新聞の写真でプリンスレット・ストリート19番地とあったので、夫も驚き、「こんなに本なんてなかったよ、15カ国語もしゃべれるとは思えないけど・・・、頭おかしかったんだよ」と話していたのだ。きっと彼が行った時は本を売り払っていたのかもしれない。シナゴーグには女の人がいて、彼女が管理人のようだったとも言う。ロデンスキーは頭がおかしいから、哀れなので置いてあげていたのだろうか。

現在、このガラクタは、発見後ロンドン博物館 Museum of Londonで保管され、又現地に戻されたのだそうだ。ここが、移民博物館になったら再び、元の「今まで一度も見たこともない程汚い部屋」に復元されるかもしれない。その時は是非見たいと思っている。

2007年05月11日

さよならブレア首相  Good Bye、 Mr Blair !

SAVE0037.jpg
5月10日の夕刊新聞。6月27日に女王に辞任を提出すると公表した。

10年前、40代前半で首相になったトニー・ブレアが辞任発表を彼の選挙区のセッジフィールドで行った。彼は首相になった時、自分は「戦争を知らない子供」で平和主義と言っていたのに、5回も軍をおくり、イラク戦争のあった2003年頃から人気が落ちてきていたし、最近では上院議員の資格を党の財政の為、売ったのではと疑われたりして、信頼も減り、今年中に辞任すると言っていたので驚かないが、何と最後に、歴史に残る偉業を成し遂げた!

それは、北アイルランドのプロテスタント(多数派)とカソリック(少数派、武装組織 IRA )の和解で、この確執は300年以上にわたり、泥沼化した争いを終わらせたいという強い意志と長期的視野で、彼が就任した翌年、不屈な精神で5日間にわたる円卓会議で、和平合意。

これは、すごいなと思いました。実際、それまで、毎年クリスマスの月は「テロの月」という感じで、私も慣れっこになっていたのが、全くテロが消滅したのだから、すごい。

SAVE0040.jpg
No Surrender 1690 (降伏なし) と壁に書いてあるプロテスタントの家。1690年、それまで立て篭もっていた自分達を、ボイン川でプロテスタント王が救い、カソリックの軍を破ったのを記念している。

でもIRA が武装解除の不完全とか、プロテスタント側でも、IRA (党名 シン・フェイン)を正当な党として認めない等、この和平合意も空中分解するのでは・・・と思われつつ10年。それが、この3月25日に、両党主の合意があり、先週実際に、「テロ集団とは口をききたくもない」と言っていた頑固者でプロテスタントのイアン・ペーズリーが議長に、昔はテロ実行犯だったカソリックの、マーテイン・マックギネスが副議長になり、アイルランド議会が開催されたのだ。ふたりが笑って一緒にいる写真を見て心から嬉しいことだと思った。これは、ブレア首相の偉業だと思います。

その他、スコットランドとウェールズに自治議会を持たせたり、父親産休を自分もとってみたり、上院(貴族院)議員を1200人から半分に減らしたり、同性愛者の入籍を認めるなど、なかなか斬新でもあった。
しかし、すべての国民にパーフェクトなリーダーであるのは不可能だろう。10年前は若かった首相も時には老眼鏡をかけ、すっかり皺もふえた。Good Bye, Mr Blair!

2007年05月13日

王立芸術院でモネのパステル画、素描展を見る Monet's Pastels & Drawings

IMGP1136.jpg
王立芸術院 Royal Academy of Arts の前庭。銅像は初代院長のレノルズ。創立記念日か彼の誕生日か定かではないが、年の一度、花輪がこの像にかけられ、かわいらしくなる。

先日、「知られざるモネ展」と題されている、パステル画、素描の展覧会を見にいってきました。彼は1840年生まれで、作品はモネ17歳位からの素描が展示してあり、晩年に至るまでの変換をそれ程多くない作品から伺うことができ、たいへん興味深かった。

十代のときは、カリカチュアの人物画多く、家族や友人に見せて笑っている場を想像して微笑んでしまう。でも段々と絵画にのめり込む感じが、素描に出てきて、そのうちパステルを知ってからは、今私達が想像するモネ・・柔らかい光に包まれたような絵が出てくる。

解説によると、モネは正式な美術教育を受けなかったのが幸いして、キャンバスに直接描くようになったと信じられていたが、実はスケッチをしてから油絵にした絵も沢山あったという事が素描と油絵の併設で理解でき、おもしろい。

SAVE0038.jpg
展覧会のカタログ。これは、モネが1901年にロンドン滞在時、絵の具が到着しないのでパステルで、滞在していたサボイ・ホテルから描いたウオータールー橋。当時、スモッグで汚れていたが、それが、彼の絵をますますモネらしくしている。

スケッチブックは全部息子に残したそうだが、800枚に及ぶスケッチがコンピューターに収納され、来館者は1ページずつ見れるので、ファンにとっては、楽しそう。

SAVE0039.jpg
展示の最後の作品で1918年。(絵葉書なので部分)これの解説によると、「白、黄色、緑のリボンのような線で描かれたこの絵は、あたかも素描と色とが遂に混ざってしまったかのよう」とある。晩年の美しい睡蓮の絵で、うっとりと見つめて、幸せな気持ちになりました。

この展覧会は6月10日迄です。www.royalacademy.org.uk/monet

2007年05月22日

ロンドンの花壇と、デボンの雑草

IMGP1132.jpg
ロンドンのテート・ブリテン(英国絵画美術館)の前の花壇

IMGP1180.jpg
デボンのダーテイントン・ホールというお屋敷のそばの雑草

先週は、スケッチをするグループと一緒にイギリスの西部を主にツアーに行きました。その時に見た雑草が生い茂る草原は、黄色に白と紫の花が、かわいらしく混じり、とてもきれいだったのですが、ロンドンの街中の、テート・ブリテンの前の花壇は、まったくこの野原と同じような植物を植えてあるので、つい微笑んでしまいました。とてもしゃれた、街の中の野原だな・・と感心しました。

IMGP1135.jpg
美術館の前の野原。イギリスの田舎を彷彿とさせるガーデニングです。

2007年05月25日

衛兵もたいへん! 

IMGP1444.jpg

先日、チェルシーの衛兵のバラックの横を通り、衛兵達が女王の誕生日記念行事の演習をしているのを見て思わず笑ってしまいました。いつもバッキンガム宮殿やウインザー城で、すまして行進しているのを見ているものですから、戦闘服と、熊の毛皮で出来た行事専用の帽子の組み合わせの、アンバランスさに驚いてしまったのです。

IMGP1443.jpg

いつもはメロデーのある鼓笛隊にあわせて行進するのですが、練習なので太鼓の拍子に合わせて大きく足を上げて行進の練習をして、ちょっと一休みの衛兵。彼らは、自衛隊のような志願兵で、戦争とあれば出かけます。行進の時の楽しい音楽と、赤い服で、楽しいイメージをもちますが、本当は楽な仕事ではなく、実は命がけなのです。リラックスした衛兵たちを見ると、ふつうの若者の素顔が見えました。

IMGP1406.jpg
青空の下、元気に美しく行進する衛兵。 ウインザー城にて。

2007年05月27日

チェルシー・フラワー・ショー Chelsea Flower Show

IMGP1452.jpg
これは、「ローマの香り」という題の庭で、出品者は,昔ローマ軍の駐屯地でもあったリーズ市 (Leeds in Yorkshire)で、発掘調査にもとずく植物ー大部分は薬草らしいですーを、デザインは現代流行のカッテージ・デザインにして作ったとのこと。紫でまとめてあり、すてき。

さて、5月22日から26日まで、イギリス最大の花の祭典、チェルシー・フラワー・シヨーが、退役軍人さんの施設であるChelsea Royal Hospital の庭で行われました。入場券は売り出す直後に売り切れになるという程の人気で私はあきらめていたのですが、有難いことにお客さんについて入場できました。ものすごく混んでいて、前評判の高いモデル・ガーデンはなかなか見れませんが、花に対するイギリス人の熱情が理解でき、楽しかったです。国営放送であるBBCも毎晩、実況放送をテレビで流し、入賞者の発表をしたりします。

IMGP1454.jpg
この豪華な色合いを見てください。すごい!!

プレヴューは、社交界の場で王室、貴族、各ソサエテーの花形が集まり、これに招待されると鼻高々ということですし、又、このフラワー・ショーに展示できると、デザイナーも花屋、関連会社も、この筋では箔がつくということで、完璧にすばらしく見せています。

IMGP1458.jpg
これは、アメリカのワインヤードが出品した、環境保護を意識した庭で、花は殆ど野の花で、土質、肥料にペスト除去等、すべてを自然に合わせて作っているそう。

IMGP1460.jpg
上に反して、これは化学肥料会社の出品。頑張ってます。

IMGP1436.jpg
会場外の、キングス・ロードのお店も、一緒になってフラワー・ショーの気分を盛り上げてます。

2007年05月31日

英国スケッチ紀行(イギリスの片田舎を巡るスケッチの旅)随行報告

IMGP1274.jpg
もう2週間も前になってしまうのですが、大変楽しいスケッチ・ツアーのガイドをした報告をしたいと思います。5月14日から19日迄、昨年たまたまお仕事を頂いた添乗員さんが、アート専門の旅行会社を設立され、昨年は焼き物ツアーとして、スリップ・ウエアを訪ねる旅だったのですが、今回はスケッチ旅行を企画され、今年はじめから連絡しあって現実に持っていったものです。北海道の会社で、今回は道内に沢山の生徒さんがいらっしゃる国井しゅうめい先生と生徒さんたちで、26人の方が参加されました。

IMGP1176.jpg
最初の日はデボンのトットネス近くのダーテイントン・ホール Dartington Hall という9世紀からの歴史ある館が、1925年より、芸術を育てる学校や、地域の農業のために研究などをするメッカとなった所でのスケッチから。自由な空気いっぱいの所で、アメリカ・インデイアンの笛を奏でるYさん。メロデーはなく即興だが、ここの空気にぴったりです。バーナード・リーチもここに呼ばれて作陶、指導もしています。

IMGP1205.jpg
この日の午後は、コッキントン村 Cockington 。藁葺き屋根の家が並ぶ可愛らしい村で、ここのマナー・ハウスと庭園も含めて、地域の管理下にあるおとぎの国。第二次世界大戦の後は米軍がオフィスとしてここを使ったそうです。大きな木の下で雨を避けてのスケッチ。

IMGP1253.jpg

次の日は、コンプトン・マーチン Compton Martin という人口5百人の小さな村へ。教会はノルマン時代からの立派なもので、村でたった1軒しかないパブでお昼を食べて、皆スケッチに励みました。その後、バースへ向かいローマ浴場などの観光でちょっとリラックス。

IMGP1344.jpg

IMGP1351.jpg
3日目はコッツウオルド地方に入り、石作りの家や、川が美しいバイブリーへ行きスケッチです。川辺のスケッチは道行く人びとが見たり、お喋りをしたり。人間ばかりではなく、鳥も見に来ます。

IMGP1383.jpg

IMGP1387.jpg

4日目はロンドンから、ケントの東南に移り、スコットニー・キャッスル・ガーデンでのスケッチ。花が満開で「絵にも描けない美しさ」を、敢てスケッチ!その後はぷーさんで有名なアッシュフォレストの森に向かい童心にかえり、ぷーさんの橋まで散策しました。この日は、合評会がありましたが、いきいきとした個性あふれるスケッチを皆さん描かれていました。

最終日は、ロンドン市内で、テート・ブリテンというイギリス絵画のみ展示してある美術館で、ターナーを見て、ナショナル・ギャラリーでも鑑賞し、その後は画材屋に寄ってお買い物もして、空港へ向かったのですが、きっと皆さんは疲れたことと思います。

SAVE0041.jpg
Mさんが早速送ってくださった写真。見ているだけで思い出して微笑んでしまう。


先生の個展に合わせて、皆さんも再集合して、スライドなど見て(きっとお酒も飲んで)過ごすとのこと。、皆さんが楽しまれましたように!

追記

「アートツアーズ」に興味のある方は、松山氏に、直接下記の電話かメールにて、お問い合わせください。国内外のスケッチ旅行ほか、アート関係のツアーを専門にしているユニークな会社です。イギリスにおいては、植物を描く”ボタニカル・アート”のツアーや、ボール・ルーム・ダンスの祭典”ブラックプールへの旅”等を、ただ今企画中です。又、ご希望などあればご連絡ください。

t.matsuyama@arttours.co.jp

ART TOURS 株式会社アートツアーズ
松山司
住所; 札幌市東区北6条東5丁目1-3-15
電話; 011-731ー7000
FAX; 011-731-7011

国井しゅうめい先生の「夢道場」の、ウェブ・サイトもご覧下さい。道内各地で教えていらっしゃいます。

http://www.yume-dj.com

About 2007年05月

2007年05月にブログ「来て!見て!イギリス-ブルーバッジ・ガイドのロンドン便り」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2007年04月です。

次のアーカイブは2007年06月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35