嫌いだから見てみよう Gilbert & George

7階レストラン。すごい雨です。
昨日は友達と一緒にテート・モダーンで「ギルバート・アンド・ジョージ回顧展」を見ました。電話で友人「わたし、彼らのこと、あまり興味ないんだけど、どうしてあんなに人気があるのか知りたいの。一緒に見にゆかなーい?」実は私も好きじゃないけど、気になっていて、何度か展覧会を見ているのだが理解できず、きちっと見たいなと思っていたので、彼女とならあれこれ意見を出し合い楽しめるので、決定。それが昨日。会う場所は、お気に入りのレベル7で、レストラン。しかし、どこでどうなったのか、結局ひとりでランチを食べて、回顧展会場でばったり会いました。よかった。さて、それでは、あまり好きじゃないけど、気になるギルバートとジョージの人気の秘密探検開始。

ポスターはこんな感じです。
テート・モダーンでは今まで最大規模の展示で、カフェ、通路含めてフロア全部が彼らの展覧会。彼らの作品というと、私のイメージでは、「正方形の額に入った写真の組み合わせた作品。いつもふたりは、おそろいの背広ネクタイ、背が高くてメガネのジョージと、背低いギルバートが必ず作品に入っている。色は目にささるほどの原色。テーマは暴力的。」この日は、回顧展なので、順を追ってみてきました。
まず、ジョージは1942年生まれ、イギリス人。ギルバートは1943年、イタリア人。ふたりとも、ロンドンのセント・マーチン美術学校の彫刻の学生で知り合い、共に芸術活動を続ける。
まずは、60年代は、”生きる彫刻”、”歌う彫刻”、東京で1975年に顔を赤く塗って展示(?)したこともあるという。私達は、「へー、パフォーマンス・アートね、よくありそうよねえ。題さえつけりゃ、ただ立ってるだけでも生きる彫刻よねー。」 次、大きな紙に、彼らふたりが等身大で森の中を歩く木炭スケッチで、”紙の上の木炭の彫刻”。「絵もうまいね、ふーん。こんどは描かれた彫刻ね、でもただのスケッチじゃん。」次、絵はがきを並べた”ポストカード彫刻”を見て、「有名になると、絵はがき並べて十字架つけて、サインいれるだけでも売れるのよねー。」などと意見を述べ合う。その後、四角い額入りの写真ばかりになるのですが、色は赤と黒しか入ってない。解説を読むと、今まで彫刻ばかりやってたので色を使うのを躊躇していたとある。しかし、赤のパワフルさは、黒をはるかに凌ぐと言ってる。すごい、色の力を良く知ってる。この写真のシリーズは現在まで続くのだが、テーマは変化し続ける。70年なかばの不景気な時代、パンクも出現し、アートは直接的で破壊的な時代。街の落書きを作品に入れ、彼らの落書きこそ最もアバンギャルドに見える。私達も少し考え方あらため「へー、時代感覚あるよねー。自分達のことばっかと思ってたけどねー。」となってくる。1980年にはいると、色数ぐんと増し、「私達は、真に自分たちを喜ばせることのみを実行することに決めました!」と、自分達がホモ・セクシュアルであることを前面に出しはじめ、圧倒されるような彼らの美と若さへの賞賛、欲望が、こちらへ伝わってくる。私達は、「これって、ポルノ効果じゃなーい?」「うん」。今思うと、これらが、この展覧会の中で最も感動的でした。1990年前頃から、エイズで次々友人を亡くす経験から暗さを帯びる。又、美しいものを、逆に醜く見せるように作為したりして、彼らの絶望感をあらわす。良き時代の美しい”ヌード”から、赤裸々な単なる”裸体”を表す現代性を感じる。尿や血液の顕微鏡写真も使い、見えない美を探そうとしているよう。その後、自分達の住むE1地域の自分のテリトリーの通りの名を連ね、この地は貧困、移民の過去と現実であることを想像させる。2003年以降はデジタル技術を使い、写真の合成を行うが、わざと、自分達の写真も半身を対象に置き、目だけ塗って面のような顔にして、まるでエジプトのファラオみたいに見える。ゲイであることは、彼らが若い頃は違法だったし、ギルバートはイタリアの田舎のカソリックの生活の中で、宗教による抑圧は強く感じたらしく、どの作品も神に対するアンビバラントな感情が秘められている。ビデオでは、ギルバートがイタリア訛りで「私達は正直に生きてゆきます。美に奉仕します。」と言っている。最後には、「すごいねー、ギルバートとジョージは!」と私達は言い合ったのでした。めでたし、めでたし・・・

カフェも展示室となっています。本当は撮影禁止なのですが、知らないで撮ってしまいました。
詳しくは、www.tate.org.ukをご覧ください。
































