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2007年03月 アーカイブ

2007年03月01日

嫌いだから見てみよう Gilbert & George

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7階レストラン。すごい雨です。

昨日は友達と一緒にテート・モダーンで「ギルバート・アンド・ジョージ回顧展」を見ました。電話で友人「わたし、彼らのこと、あまり興味ないんだけど、どうしてあんなに人気があるのか知りたいの。一緒に見にゆかなーい?」実は私も好きじゃないけど、気になっていて、何度か展覧会を見ているのだが理解できず、きちっと見たいなと思っていたので、彼女とならあれこれ意見を出し合い楽しめるので、決定。それが昨日。会う場所は、お気に入りのレベル7で、レストラン。しかし、どこでどうなったのか、結局ひとりでランチを食べて、回顧展会場でばったり会いました。よかった。さて、それでは、あまり好きじゃないけど、気になるギルバートとジョージの人気の秘密探検開始。

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ポスターはこんな感じです。

テート・モダーンでは今まで最大規模の展示で、カフェ、通路含めてフロア全部が彼らの展覧会。彼らの作品というと、私のイメージでは、「正方形の額に入った写真の組み合わせた作品。いつもふたりは、おそろいの背広ネクタイ、背が高くてメガネのジョージと、背低いギルバートが必ず作品に入っている。色は目にささるほどの原色。テーマは暴力的。」この日は、回顧展なので、順を追ってみてきました。

まず、ジョージは1942年生まれ、イギリス人。ギルバートは1943年、イタリア人。ふたりとも、ロンドンのセント・マーチン美術学校の彫刻の学生で知り合い、共に芸術活動を続ける。
まずは、60年代は、”生きる彫刻”、”歌う彫刻”、東京で1975年に顔を赤く塗って展示(?)したこともあるという。私達は、「へー、パフォーマンス・アートね、よくありそうよねえ。題さえつけりゃ、ただ立ってるだけでも生きる彫刻よねー。」 次、大きな紙に、彼らふたりが等身大で森の中を歩く木炭スケッチで、”紙の上の木炭の彫刻”。「絵もうまいね、ふーん。こんどは描かれた彫刻ね、でもただのスケッチじゃん。」次、絵はがきを並べた”ポストカード彫刻”を見て、「有名になると、絵はがき並べて十字架つけて、サインいれるだけでも売れるのよねー。」などと意見を述べ合う。その後、四角い額入りの写真ばかりになるのですが、色は赤と黒しか入ってない。解説を読むと、今まで彫刻ばかりやってたので色を使うのを躊躇していたとある。しかし、赤のパワフルさは、黒をはるかに凌ぐと言ってる。すごい、色の力を良く知ってる。この写真のシリーズは現在まで続くのだが、テーマは変化し続ける。70年なかばの不景気な時代、パンクも出現し、アートは直接的で破壊的な時代。街の落書きを作品に入れ、彼らの落書きこそ最もアバンギャルドに見える。私達も少し考え方あらため「へー、時代感覚あるよねー。自分達のことばっかと思ってたけどねー。」となってくる。1980年にはいると、色数ぐんと増し、「私達は、真に自分たちを喜ばせることのみを実行することに決めました!」と、自分達がホモ・セクシュアルであることを前面に出しはじめ、圧倒されるような彼らの美と若さへの賞賛、欲望が、こちらへ伝わってくる。私達は、「これって、ポルノ効果じゃなーい?」「うん」。今思うと、これらが、この展覧会の中で最も感動的でした。1990年前頃から、エイズで次々友人を亡くす経験から暗さを帯びる。又、美しいものを、逆に醜く見せるように作為したりして、彼らの絶望感をあらわす。良き時代の美しい”ヌード”から、赤裸々な単なる”裸体”を表す現代性を感じる。尿や血液の顕微鏡写真も使い、見えない美を探そうとしているよう。その後、自分達の住むE1地域の自分のテリトリーの通りの名を連ね、この地は貧困、移民の過去と現実であることを想像させる。2003年以降はデジタル技術を使い、写真の合成を行うが、わざと、自分達の写真も半身を対象に置き、目だけ塗って面のような顔にして、まるでエジプトのファラオみたいに見える。ゲイであることは、彼らが若い頃は違法だったし、ギルバートはイタリアの田舎のカソリックの生活の中で、宗教による抑圧は強く感じたらしく、どの作品も神に対するアンビバラントな感情が秘められている。ビデオでは、ギルバートがイタリア訛りで「私達は正直に生きてゆきます。美に奉仕します。」と言っている。最後には、「すごいねー、ギルバートとジョージは!」と私達は言い合ったのでした。めでたし、めでたし・・・

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カフェも展示室となっています。本当は撮影禁止なのですが、知らないで撮ってしまいました。
詳しくは、www.tate.org.ukをご覧ください。

2007年03月03日

ソーホーの布屋  Fabric Shops on Berwick Street in SOHO

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舞台衣装むけの布屋


ソーホーは、北はオックスフォード・ストリートから、南はシャフツベリー・アベニュー、西はリージェント・ストリートから、東はチャーリングクロス・ロードで囲まれた地域で、17世紀には、SOHOという名が記録に残っています。この地は狩猟の森で「ソーホー!」と狩の掛け声をかけたとか、さほど遠くない所にあるサマーセット・ハウスが、短くなってソーホーになったという話もあり、さてどうして、こんな名がついたのでしょう。ニューヨークや、香港にもありますね。

ここは、19世紀始めまでには、結構裕福な家庭の住宅街になりましたが、その後は、各国からの移民が住む街になって、カール・マルクスもここに住んで大英図書館に通って資本論を書きました。その後段々と、バーや、カフェや、売春婦などがいる所になり、1930年頃から60年頃までは、芸術家がたむろす、ボヘミアン・タウンとなり、特に画家のフランシス・ベーコンは、よく出没していたようです。この辺りは劇場も多く、クラブも多く、今も夜が最も元気な場所です。

そこを、私は、ぶらぶらと昼間歩いていました。夜と全然違うBerwick Street。「あら、きれいな布が売ってる!」と、入ってみましたら、買いに来てる人は、私みたいにミシン買ったから嬉しくて何か作ってみようかなというような感じと全然違うし、ファッション関係の人でもない。どうも劇場での舞台衣装のデザイナーらしい、中年の男性が、一生懸命、店の人と喋っていて、来週までに用意しておくようになんて言ってる。あ、そういえば、この店は、どうやってこの劇が成功したかというドキュメンタリー、「”オペラ座の怪人”の秘密」というテレビ番組にも出ていたっけと思い出しました。普通に着る服むけの布じゃなくて、色も質もちょっと違う。カードもらうと、「舞台、映画、テレビ、結婚式、その他のための布売ります」と書いてあります。

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ここも、ふつうの服ようじゃなさそう。

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絹の専門店

こりゃ、おもしろい・・・と思い、ちょっと横を見ると、又、ぎらぎら光った派手な布の巻いたのが、ずらっと並んでる店があり、又斜め向こうをみるとこんどは、おしゃれなウインドウ・デイスプレーの布屋が見えて、入ってみるとファッションの学生みたいな若者がいっぱいで、凝った布を吟味している。何だこりゃ、この通りは布屋通り?と思い歩いてみると、次から次と出てきました。絹専門店、ワイシャツ用布専門、インドの布専門等。ソーホーは、食べたり飲んだりする所で、買い物の街と思っていなかったので、とても新鮮な発見でした。

イギリスでは、今、自分で服を縫う人はまれです。インテリアに興味のある人が多いので、カーテンの布はあちこちで探せますが、服の為のものは少ないです。でも、インド人の多い地域は、きれいなサリーの布を売ってる店多いですし、アフリカ人の多いところでは、木綿の大柄な美しい布が買えます。

2007年03月04日

ロンドンの春の写真。宮殿の庭と、我が家の庭。

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我が家の裏庭の池の蛙。リラックス!

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バッキンガム宮殿前のセント・ジェームス・パークのクロッカスと後ろは水仙。豪華!

2007年03月06日

グリニッチ旧天文台 The Old Royal Observatory  

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ブラック・ヒースの丘の上の天文台。昔はここから星を見た。とても見晴らしがよい丘です。

グリニッチ天文台というと、「世界標準時」と、「子午線」があることで有名ですね。先週、散歩に行ってきました。なぜ、”旧”天文台というかと申しますと、空気が汚れたりして、1949年に場所が移され、現在は博物館のみに使われているからです。天文台は1675年に、天体観測によって海上の船の位置を正確に求める研究の為に作りました。海外進出の為に必要だったのですね。屋根のてっぺんに赤いボールがあるのが見えますか?これは、19世紀のものですが、航海前の船に午後1時をしらせて経度を正確にあわせる為だそうです。今も同じに1時に落下しますが、現在の私達には、お昼ご飯の合図にちょうどいいです。

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この線が子午線です。この上に立つと東経と西経をまたぐことになります。観光客はここで必ず写真撮らなくちゃ。最初は、勿論私も撮りましたよ。ここが、経度0度に決定されたのは1884年のワシントン国際子午線会議で、同時に世界の標準時となりました。

詳細はhttp://www.nmm.ac.uk をご覧下さい。

2007年03月07日

ロンドンの夜景2ヶ所  St Mary Abotts and Piccadilly Circus

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3月5日。ケンジントン・ハイ・ストリートにある教会セント・マリー・アボッツ前の花屋。無表情な石をバックに、この花のいきいきとした色。

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3月7日。ピカデリー・サーカスの「エロスの像」周辺。ここが一番人が行き来する交差点。

2007年03月08日

友達との日  Phil's exhibition and An extraordinary Japanese dinner

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Philip Mead, フィリッピ・ミードと彼の作品。本人もびっくりする位色が明るくなった。日本で90年代に個展をしたこともあります。

きのうは、友人の展覧会を見に行き、その後はロンドン市内で他の友人と夕食をしました。画家のフィル夫婦は以前近くに住んでいたので、よくご飯を一緒に食べたり、庭の情報交換をしたりして仲良くしていたのですが、3年前に引っ越して、その後あまり会ってなかったので、彼の展覧会は良いチャンスなので、ロンドン南のホーシャムという町の文化センターに電車に1時間乗って行ってきました。フィルも1時間かけて来て、一緒に見て、とりとめもない話をして長い間の空白を、コーヒーと一緒に埋めました。

彼は笹川財団の補助金で一昨年、東京へ行ってきました。日本で、皆ちゃんとごみをゴミ箱に捨てるのを、昔のイギリス人と同じなので、とても親近感を感じたとのこと。「今はすっかり、変わっちゃって・・・」そこで私は「日本では学校で放課後、自分達で教室の掃除をするから、皆ゴミの行く末を知ってるからね。」彼驚くも、納得。次は靴についてで、どうも地下足袋が印象深かったらしい。「靴底がすごく薄いブーツ」という表現で、あれいいねというので、私は昔から日本では、下駄やぞうりのようなサンダルを履いていて、地下足袋は特別の作業用のものと説明。そこで、彼は「足場でサンダル落ちたら危ないからか、ふーん。でも、冬寒いんじゃないの?動物の皮の利用はしなかったの?」と聞いてくるので、「だって、日本では肉を食べるのは明治以降一般的になったので、家畜は農耕用で食用じゃないから、皮革も出てこなかったんじゃないの。」と答える。「へー、こっちじゃ、周り海で囲まれてるのに、食べるのは肉ばっかり。中世は、家畜も家族と一緒に住んでいたんだよ。」・・・と、とりとめがない。楽しい友人との再会でした。

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これが私が一番気にいった作品。古い布を地に使っていて、黄色い丸が厚い絵の具でひびが入り、そこから地の黒がランダムに見える。又、この黒の絵の具が滲みて布目に入り、美しい。布の古びた感じが、懐かしい気持ちにさせる。又、布の赤い線がものすごく生きている。丸が線で繋がってるのは、物事や人の関連を表してるのだそうだ。彼は偶然を生かすのがすごくうまい。でも、それは、日本の陶器を見て得た感覚だそうだ。


その後、ロンドンに出て、日本人の親友と夕食。来週デボンへ引っ越すので、むこうではあまりない日本食レストランへ。ここは、すごい本格的日本の味レストラン!とにかく日本食そのものが存在。何といっても、イギリスで普段お目にかからない食材を使っているのです。みょうがを久しぶりに食して、大感激しました。今も舌に残るあの味。おいしい白ワインと共に、飲んで食べて喋って、楽しく過ごし、幸せになって帰宅。これも、友達のおかげ!本を読んでいて、食べ物について書いてあるのを読んだだけで食欲が出る食いしん坊の私なので、心から満足。お腹いっぱいで、写真とるの忘れてしまいました。

楽しい友達との1日でした。

(追記)この頃は英国に10万人以上いる日本人の為、日本食料品店は、遠隔地でも出張配達サービスをしています。きっと料理が上手な彼女は、デボンの新鮮な魚と、自宅の庭で沢山の日本の野菜を植えて、おいしい日本食を作って楽しむでしょう。遊びに行って食べさせていただくのが楽しみ!

2007年03月11日

夏目漱石のサイン Soseki Natsume's signature on 1 February 1901

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一番上のサインが夏目漱石のサイン。この頃はまだ夏目金之助といっていました。住所が、カンバーウェルと書いてあるのが、とても親近感を覚える。今は本当に庶民的なところなのです。でも、百年前はどんな感じだったのでしょう。まだ33歳くらいの若い漱石を想像して、この文字を目にして、彼のロンドンでの生活を想像する。このビジター・ブックは、とても大切にされていて、館長室に保管されていて、この日も特別に、主事が見せてくれたもの。

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ダリッチ美術館の、事務室図書室で、主事のザビアー・サロモン氏と。ビジター・ブックを牧村さん、通訳の方と共に見せていただいた。

夏目漱石は、1901年2月1日にダリッチ・ギャラリーを訪れ、このサインを残しました。”2”と書いてあるのは、2人で訪れた事をあらわしています。

この漱石のサインを写真を撮ったのは、3月2日なので、大分前です。朝日新聞の牧村さんが、4月から漱石について連載を書く予定で、是非とも漱石のサインを写真に撮りたいとのファックスを美術館を通して私宛に送られたのが1月31日。私が受け取ったのが、3週間後でしたので、ばたばたと主事との連絡を取って実現したものです。主事(Curater) は、今年1月からの人なので、漱石についても、あまり知らない、私も個人的に話したのは、今回初めてでしたが、良い人で安心しました。牧村さんは、大変熱心にサインを見て、質問を色々して、さすが新聞記者と思いました。6月頃にはロンドンでの漱石を書かれるとの事。

サインを写真撮った後は3人で美術館をぶらぶらと歩いて(私が少し御案内)、その後で気持ちの良い青空の下、鉄道駅まで、牧村さんと通訳氏と私の3人で歩きつつ雑談を、楽しみました。こういう時間は、本当に幸せな時間です。

2007年03月14日

リンクページ  link page

イギリス旅行                                                

 www.visitbritain.jp
イギリスの旅の情報は、英国政府観光庁, "Visit Britain"のサイトをおすすめします。最新情報満載です。事務所も赤坂にあります。


inst_logo.gif
www.itg.org.uk
ブルーバッジの発行元、インステイチュート・オブ・ツーリスト・ガイデイング ”The Institute of Tourist Guiding"。ガイドのリストがありますので、ギルドのサイトと共に、日本人ガイドをお探しの方はご覧下さい。各ガイドの得意分野が書いてあります。

guild_logo.gif
www.blue-badge-guides.com
ガイドの同業者組合とでもよべばよいでしょうか、ギルド・オブ・レジスタード・ツーリスト・ガイズ "The Guild of Registered Tourists Guides"。ここの名簿もご利用ください。又、ガイド料金も載っています。
日本語のガイド料金は、外国語料金となります。

www.jrtga.com
こちらは日本語ブルーバッジ・ガイドのサイトです。

ブルーバッジ・ガイドの友達のサイト

www.spanglefish.com/itsukoalston/
スコットランドとロンドンの資格を持つ、オールストンいつこさんのサイト。かわいいエデインバラの自宅は、B&Bでもあります。

www.bartley.org.uk
バートレー・みきさんのサイト。最近ブログも作りました。歴史の話や、おいしい話が満載のサイトです。

www.eikoku.co.uk/
役立つ情報がいっぱいの、牛堂ユキヒロさんのサイト。魚釣りにイギリスへいらっしゃる方には必要な人です。

www.tourguide.org.uk/
http://hirokowright.blogspot.com
博物館のガイドはおまかせ!の、知識いっぱいのライト裕子さんのサイト。ブログもご覧ください。

パリのサイト

www.newsletter.ne.jp/agij/
ロンドンとパリは近いですね。パリのエスプリいっぱいのパリガイド協会のサイトをどうぞ。

http://perso.orange.fr/kurosawa/
黒澤さんは、パリの公認ガイドです。彼は歴史や画家についてわかり易い本も書いています。又、サイトの「黒澤タイプライター」は感動的です。

2007年03月17日

マドンナがデザイナーに!? 

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昨日、歩いているとこの巨大なポスターが、目に入りました。この色っぽい目は確かマドンナでは?この頃はモデルもするのかな?と思って下を見ると "Designed by Madonna " と書いてあって、そうか、マドンナがデザインした服を、自分で着て、宣伝してるのだと納得。

それにしても、"H&M" というお店は、安いので有名な若い女性に大人気のチェーンの服飾店で、このブラウスだって、14,99ポンドという安さです。2年前にステラ・マッカートニーのデザインの服を、このH&Mで格安で売ったり、最近では、1960年代のリプロを作って売ったりと、何かしら注目をあびる店でもあります。

昨日はバスで移動中に、時計か何かのポスターにもマドンナらしき顔があったので、もしかしたらマドンナは、多方面のデザイン活動に興味をもちはじめたのかもしれません。すっかりイギリスに住み着き、忘れた頃に話題を提供してくれるマドンナ。自宅の裏庭(といっても広大な土地)が、誰でも散歩できる、パブリック・フット・パスであったのを、不満として裁判を起こしたり、アフリカの子供を養子にするのに、他の人と同じややこしい手続きをしないで連れてきたとか。人が何を言おうと、パワフルなマドンナは動じません。

彼女のデザインした服が3月22日に発売される前から、きっと行列ができるでしょうね。

追記; 興味のある方は、マドンナのサイトをご覧下さい。
     www.madonna.com
( Madonna relieses H&M commercial ! )

2007年03月18日

タイルが張られた美しい部屋。レイトン・ハウスにて。 Leighton House

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ケンジントン・ハイ・ストリートを外れた閑静な住宅街にフレデリック・レイトンという画家の家が、博物館となっていて一般公開されています。

彼は1830年生まれで、父は医者でお金持ち。小さい頃から海外の生活多く、絵画もベルリンで習い、その後フィレンツエやフランクフルト、ブリュッセルやパリにも住み、教養と語学力に優れ、25歳の時、始めてロイヤル・アカデミーに出品した作品がヴィクトリア女王が買ったのを始めとして、49歳でロイヤル・アカデミーの会長、騎士叙勲。69歳で亡くなる1年前には画家としては始めての新年の名誉ある人々に選ばれ、男爵位を授けられたという、成功した画家です。

レイトンは、この家を建てる前に、ドラクロアのアトリエを訪ねており、自分の家も、きちんとしたアトリエと、エンターテイメントやアーテイストとの交流に適するものにしようと考えたらしいです。35歳の時に建てはじめ、完成しても幾度となく改造、増築を行っています。でも、寝室は自分用の狭いベッドがあるだけという家で死後、売れませんでした。

さて、沢山ある部屋の中でも私が特に気にいっているのは、「アラブ・ホール」と呼ばれる、びっしりタイルを張りめぐらした部屋で、アラブの国を旅して、すっかり気に入ったシシリーのパレルモにある12世紀の宮殿がアイデアの源泉になっているそうです。このタイルは、ダマスカスの廃墟などから持ってこられた16世紀ころのものや、インダス川沿いのイスラム教の墓などからも来た千枚ほどの古いタイルに、ウイリアム・デ・モーガンという陶芸家が、上手に補足して完成させたものです。

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真ん中で静かに噴水が水を動かすだけの、この部屋の窓の傍のカウチで寝そべって、たった一人で本を読んだらどんなに幸せでしょう。読んでる内に眠くなって夢はアラビアン・ナイトみたいにきれいな色がついていそうです。訪ねる度に叶わぬ夢を見てしまいます。


レイトン・ハウス・ミュージアム Leyton House Museum(今回の写真はガイドブックのスキャン)
www.rbkc.gov.uk/leightonhousemuseum

2007年03月19日

シェイクスピアの故郷、ストラットフォード・アポン・エイボン Stratford Upon Avon

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この家はシェイクスピアの奥さん、アン・ハサウエイの実家。ストラットフォード近くの村ショッテリーにある。

先週、ストラットフォードにシェイクスピアの生家を訪ねるツアーのガイドをしました。150km位ロンドンから北上します。シェイクスピア・ファンの聖地ともいうべき所です。私も彼のファンなので、何度行っても、この500年前のすごいイングランド中部のしたたか者のウイリアム・シェイクスピアに敬意を表して、謹んでガイドさせて頂くのです。

シェイクスピアが生まれたのは1564年で亡くなったのは1616年です。お父さんは手袋屋と羊毛取引でお金持ち。町のグラマー・スクールで学ぶが、お父さんが商売に失敗。そして18歳の時、26歳のアン・ハサウエイとの間に子供が出来て、若い結婚。長女の出産、20ヵ月後に双子が生まれ、21歳頃ロンドンへ上京。劇場で下働き、役者などをして、その内に台本を書くようになり、それが大成功。喜劇、悲劇、歴史劇、何でもござれ!頼まれたお客さんに喜こばれるように、劇を書くのですから売れっ子です。それに大学で使うようなややこしい言い回しなんてしない。でも、心に訴えかける言い回しが一杯。沢山のお金を持って、故郷のストラットフォードに33歳頃戻って、町で2番目に大きな家を買って終生暮らしました。

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孫娘の家の前。この右にニュープレイスと呼ばれるシェイクスピアの家があった。この前のレストランでお昼食べたのでパチ!

ストラットフォードの町中には、彼の生家と娘の婚家(夫が医者だったので薬草園あり)、そして孫娘の婚家(実はこの隣に町で2番目に大きかった彼の家があったのですが、壊されて、今はきれいな庭となっている)が、又、ショッテリー村には妻の実家、ウイルムコット村には彼の母の実家が、シェイクスピア・バースプレイス・トラストにより買取られ一般公開されています。

このトラストは、一般の人びとの寄付と入場料で運営されていますが、彼の生家を1847年に買い取ったのを手始めに、その後5件に増えたわけです。チャールズ・デイッケンズも協力者で、生家が、肉屋やパブになったりして、売りに出たのを、シェイクスピアピアを尊敬する人びとが、力を合わせて買い取ってくれたお陰で、今も私達が、「この床をシェイクスピアも歩いたのですよ」とか、「このベンチで若いシェイクスピアは、8歳年上のアンにキスをしたかも・・」なんて話を聞いて、今までシェイクスピアって本当にいた人なのかしら?なんて思っていたのが、かなり現実的に、この16世紀を渡り歩いた、すごい人間を想像できるようになるのです。

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ギルドの教会と、隣がシェイクスピアも行った学校。今も学校の一部として存在してるのが驚きです。

ストラットフォードには、劇場が3つあってシェークスピア劇を主に演じています。コッツウオルド地方も近くですし、ロンドンから1泊して、劇を楽しみ、街を楽しみ、田舎も楽しもうという人も多いです。街には黒い梁に白壁の、古い家が多く、500年前の佇まい。でも、車は多いけど・・・。今回、仕事に熱中してましたので、肝心の生家の写真撮れませんでした。

2007年03月22日

大西洋横断奴隷船の禁止から200年  The abolition of the transatlantic slave trade

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今日の新聞のロンドン市長からのメッセージ

今年は、イギリス船による大西洋横断奴隷運搬が1807年に廃止されて200年になります。でも、新大陸、西インド諸島等の植民地等での完全廃止には、1834年まで待たなければなりませんでした。ともあれ、英国領内における奴隷制廃止への一歩を踏み出したこの条例が可決されたのが、3月25日ですので、イギリス中で記念行事が行われています。恥ずべき歴史のひとつですが、そこから学ぼうとする姿勢を国中で表しているように見えます。

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オラウダ・エクイアノ

ウェストミンスター大寺院でも、祈祷が行われ、又レクチャーもありました。そこでは、オラウダ・エクイアノ Olaudah Equiano という奴隷から奴隷解放運動家へとなった人の話がされました。

彼は1745年頃、11歳で今のナイジェリアでさらわれて新大陸につれて行かれ、奴隷として売られました。英領ヴァージニアで、イギリス人キャプテンのパスカルに買われ、新しい名前を与えられ、その名を呼ばれて答えるまでぶたれたそうです。しかし、読み書き計算を習い、色々な国を回り航海術も習い、7年後売られた時は、ロバート・キングという商人で、40ポンド貯めて1766年に自由を買い取りました。彼はロンドンに来て、奴隷解放運動家と知り合います。同じく黒人の友人、オッタバ・クゴアノが、「アメリカにおける奴隷の物語」を書いてジョージ3世に奴隷の実態を知ってもらおうとするのに、協力もしましたが、王は動じませんでした。

彼は、1789年に自分でも「アフリカ人、オラウダ・エクイアノの生涯」という自伝を書き、奴隷の生活の悲惨さや不公平を一般に知らせるおおきな役を果たし、ドイツ、アメリカ、オランダでも出版され、彼の存命中に1900冊も国中で売れ、各地で公演もしました。1792年にはケンブリッジシャーのイギリス人と結婚し、長女は早く亡くなりましたが、次女は父から10万ポンドもの遺産を残されました。

イギリスの奴隷解放推論者たちが、アフリカに奴隷が戻れる国を作ろうという運動を起こし、オラウダはその指揮者に選ばれていたのですが、達成前、1797年に亡くなってしまいました。シエラ・レオンはイギリスの保護下、1807年から8年にかけて、そうやって出来た国です。

イギリス人は、新大陸の植民地で砂糖、木綿、タバコなどを作る労働者として、アフリカから鉄砲などの武器を主な交換物として大量に連れてきたのです。1790年代の英領西インド諸島だけで52万人もいたそうです。又、非常に高い利益を受けていたので、なかなか国会でも廃止にもってゆけませんでした。廃止運動の率先者はクエーカー教徒でしたが、彼等は国教会ではないので、選挙権もなく、国会に訴えることはできません。議員で42年間も頑張ったのが、ウイリアム・ウイルバフォース William Willberforce で、この1807年の成果も、彼を中心として行われました。彼のお墓はウエストミンスター大寺院にあります。

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「私は人間ではなく、兄弟でもないのですか?」と書いてある、ウエッジウッドのメダル

陶器メーカーで有名なウエッジウッドの創立者、ジョサイア・ウエッジウッドも奴隷廃止運動家で、自分のお金で何千個ものメダルを作って、アメリカのベンジャミン・フランクリン始め多数の人びとに働きかけました。

2007年03月24日

国立肖像画美術館にて National Portrait Gallery

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ヴィクトリア時代の胸像の前でアフリカのドラムと踊り。子供が一緒に参加。別の部屋では、黒人の語り部の話もあった。

きょうは仕事の後、お腹がすいたので中華街へ。レストランの向かいに、日替わりで、少し時期遅れだけど、安く見れる映画館「プリンス・チャールズ」があり、プログラムを見てみると、今日4時に、見過ごしたベアトリス・ポターの話「ミス・ポター」が上映されるというのを発見。2時間ほど街で時間をすごして待つことに決定。

そこで、近くの国立肖像画美術館へ行くと、すごいドラムの音ががんがん響いている。むむ・・、これはアフリカだな!明日が大西洋横断奴隷船禁止記念日なので、その行事の一環のよう。入り口で地図をくれて、細かくマークした有名人の肖像画の部屋番号が書いてある。それに沿って見て行くと、その人の奴隷に対する見解が説明してあり、大変興味深い。エリザベス1世女王は、アメリカの植民地を作る時すでに、奴隷を使うことに許可を与え、彼女自身も投資している。この時の海外進出の主役のドレイクが黒人メイドを使い始め、それがファッションに。その後の王達も、しっかり奴隷商売に投資しているし、ニュートンも、アレクサンドラ・ポープも南海商会に投資。1778年のメソジスト派創設者のジョン・ウエズリーは、非人間的なこととして反対。弱者の味方と思ってたチャールズ・デイッケンズは、ジャマイカの奴隷蜂起に反対で、がっかり。トーマス・カーライルは黒人差別者で、「劣等人種、怠け者」と形容。この人もこんな考え方だったとは知らなかったので残念。白人以外は劣等と考えていた人が多かっただろうけど、こんな知識人も同じだったとは・・・。勿論、解放論者も沢山いたけれど、この、ひとりひとりの検証は、おもしろかった。

さて、映画はとてもチャーミングだったので、又いつか書きたいと思います。湖水地方がいっぱい出てくるし、ロマンチックなのです。きょうも又、興味いっぱいの日でした。先週は風邪でだるかったので、元気に過ごせて、嬉しかったです。

2007年03月26日

イギリスのたった一つの温泉バース  Roman Bath

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湯気がもうもうと立ち上る温泉

さて、今日は早朝到着(5時19分)のお客さんと共に温泉の町バースへ行ってきました。イギリスの地面は火山帯と全く無縁で、この温泉は、何と1万年前の雨水が地下3kmまで行って熱せられ、上がってきているという正に温かい泉で、1日125万リットル、約46.5度という適温で、こんこんと湧き上がってきています。そして、この写真のプールのような温泉は、紀元1世紀にローマ人によって作られたのです。実は、イングランドも43年から410年まで、ローマ帝国の支配下でした。こんな遠い所まで進出していたローマにびっくりです。

さて、お風呂の好きな日本人のわたし。何だか、ここに入ってのんびりしたくなりました。去年から、この温水を引いてモダンな温泉ができたのですが、どうもスポーツ施設っぽくて。この古臭い温泉は入浴禁止で、見るだけです。

頭の上に手拭をのっけて、鼻歌でも歌いながら入ってたら幸せでしょうね。

2007年03月27日

子供時代博物館 Museum of Childhood

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操り人形のテントの後ろにいるクラウン

今日の午後、ベスネル・グリーンという地区の子供時代博物館へ行って見た。実は友人の展覧会のプレヴューの前の時間つぶしに行ったのですが、すっかりノスタルジックな気分になり楽しみました。

元々は、この辺りは貧民街だったので啓蒙の為の博物館として1872年に開館したらしいですが、1974年から子供博物館になってます。おもちゃや、子供服や、ドールハウス、赤ん坊のものなんかが展示してあって、最初は別世界のものとして見ていたのですが、毛糸で編んだ水着が出てきたあたりから、段々とこの子供の世界に自分も入っていきました。

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「パンチとジュデイ」どたばた劇。Gus Wood が50年使った人形。(1912-1962)

まず、「パンチとジュデイ」という操り人形が目に入りました。そして、ずっと忘れていた昔の友人マヌエロを思い出しました。彼は夫の友人で、チリから亡命してきていて、スペイン語を細々と教えて生計を立てていました。彼は、手先が器用で、センスもいいし、何を話しても楽しくて、大好きでした。よく一緒に話したり、食べたり、飲んだりしていました。そして、りんごを乾かして皺を上手に作って、お婆さんの頭にして、他にも人形作って、おもしろい服着せて、お話作って、一緒に近くのストレットハム・コモンという公園で毎週子供目当ての人形劇をやろうと話し合って盛り上がっていました。ところが、誇り高いマヌエロに夫が冗談を言って怒らせて絶交してしまったのです。私は、マヌエロと一緒に木陰に小さな舞台を作ってふたりで、ちょこちょこ動き回って、子供をはらはらさせたり,笑わせたりするのをとても楽しみにしていたので、この事件がとても悲しかったものですから、博物館のこの操り人形は、久しぶりにマヌエロを思い出させてくれました。ゲイで、賢くて、優しい彼も今頃たぶん70歳くらいでしょう。懐かしくなりました。

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Miss Revlon ミス・レブロンという1956年の人形。服は高校生が作った。

この着せ替え人形は、とてもかわいいでしょう?私も小さいころは着せ替えの服を縫ったり、編んだりして着せ替えて楽しんだものです。自分では不可能なロングドレスをチュールや、レースを姉からもらって作ると本当にたのしかったものです。今頃その楽しい気持ちを思い出したりして不思議な気分。

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このドール・ハウスは1800年位のもの。

ドールハウスは、持ったことはありません。でも、西洋の小説に出てきて聞いたことはありました。私は、お雛様を使って(しかも、ものすごく値打ちのある立派なのを)おもちゃにして、大家族にしてあそび顔も汚くして、髪の毛もぐちゃぐちゃにしてしまったのを、思い出しました。東京の親戚が疎開する時に、私の母に託したという、あの美しいお雛様、私がすっかり台無しにした後は、どうなってしまったのかしら。思い出す度に心が痛むのですが、ドールハウスに又触発され、再度この気分を味わう。

たまには、こうやって過去の世界に戻るのもいいなと思いました。

2007年03月30日

サージェント・ペパーズ・ロンリー・クラブ・ハーツ・バンドがリリースされて40年 Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band

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きょうラジオを聴いていたら「ビートルズの名盤、サージェント・ペパー・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドの40周年記念日です。」ということで、アルバムをデザインしたピーター・ブルックにインタビューしていました。(実際にリリースされたのは6月)このジャケットは見た瞬間から大好きで、実はこのブログの表紙のデザインもインスピレーションを得ています。私はポップな60年代のスインギング・ロンドンにとても憧れていたので、今もその気が抜けないようです。40年前とは!!

ジャケットのカラフルさ、古臭いブラスバンドを超かっこよく見せて、マルクスからルイス・キャロル、石像などめちゃくちゃ入れて全くの混沌と平等さで、新鮮に見えたものです。曲もそれまでの、ファンが期待する、アイドルのビートルズが歌うようなのではなく、全く超然としたものでびっくり。とにかく、すべてが、今までと違ってたのです。それまでの、ロック音楽に使う楽器だけじゃなくて、何だか色々な音が入っていて、しかもサイケデリックな感じもするし、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」なんてすごく好きでした。大体かなりアグレッシブな感じで、やっぱり当時のビートルは若いエネルギーに溢れていたのだと思います。

さて、ピーター・ブルックは、もうおじいさんの声で、ジャケット作った時はコンピューターで合成するようにはいかず、切り取ったり貼ったりの手作業で、人物も自分の友人は入れたが、他のロック・ミュージシャンは、ボブ・デイランを除いて遠慮したとか、曲を聴く前に製作し始めたそうですが、コンセプトとしては、「ビートルズ」としてのアルバムではなく個人である4人が作ったもの・・ということで、いつも歌わないリンゴの歌もあるし、アルバムの題名が、"lonely hearts club band" 「寂しい心のクラブバンド」なので、ビートルズ解体の前触れでもあったのだろうと言ってました。

さて、今日はこの素晴らしいアルバムの曲と一緒に掃除でもしようかな。

追記:表紙デザインは、写真とアイデアが私で、実際に製作したのは娘です。

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