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2007年02月 アーカイブ

2007年02月03日

ルーブルに於けるアンナ・フォン・クレーフェの肖像画

なぜロンドン便りにパリにある絵の話が?と思われるかも知れませんが、この絵はロンドンで描かれたものですので入れておきました。清教徒革命の時代に売られてパリで落ち着いたのでは?と勘ぐってますが確証はありません。元々はパリガイド協会のサイトに投稿したものです。

一昨年、ルーブルを訪れた折、肖像画の部屋を覗き、偶然にも本で幾度となく出会っていた懐かしいアン・オブ・クレーヴス(英語ではこう呼ばれています)と出会いました。ハンス・ホルバイン(子)が描いたアンは、静かに目を下に向けエレガントだが、手を大きく描いて真正面を向かせたポーズは威厳に満ちています。どういう経緯で、ロンドンからパリにやってきたのかしら?と思いつつ彼女の奇異な人生に思いをめぐらせてみました。この絵は1539年にヘンリー八世という合計6回も結婚した英国王の、4番目の妃候補の現在ならお見合い写真ともいえる肖像画です。王は、最初の結婚は兄の未亡人。別の女性との結婚を望み、離婚が認められないカソリックからプロテスタントへと国教を変え、2番目の結婚。又違う人と結婚したくなり彼女に無実の罪を被せ断頭台に送り、3番目の妃は産褥熱で死亡したので、4番目の妃を求めていました。

この結婚は、カソリック国であるスペイン、フランスとの対抗という目的もあり、プロテスタントのルター派のリーダー、今はドイツに位置するゲルダーラントのクレーヴス公ウイリアムの妹である24歳のアンを、王の相談役であるクロムウエルは薦め、婚約が整い1540年の元日、ロチェスターでふたりは初対面しています。その時見たアンの容貌があまりにも肖像画と違う為にホルバインに激怒し、彼女に失望したというのが定説でしたが、現在では、それよりも、アンが英語をまったく理解できない事、女性のたしなみや裁縫などの教育は受けてはいても、王が好む文学や音楽に無知である事、又、王の好みのタイプは陽気で、楽器を奏でたりゲームを一緒に楽しめる美人だが、彼女は正反対のタイプである事等の方が大きな理由ではないかとされています。なぜなら、ホルバインはその後も宮廷の絵画も手がけており1534年に43歳で疫病で歿するまでロンドンで活躍していたので、アンの天然痘の痕を描いてないのは責められましたが、実際とそれ程大きく差異はないのではないか?多分王が期待をふくらませすぎたのでは?等との意見が出ています。しかし、画家は彼女の顔よりも衣装に凝っているのも事実です。ともあれ、王はアンを気に入らず、一応形だけ1月6日の十二夜に結婚式を挙げ、その後、アンの待女であったまだ20歳前後の奔放で魅力的なキャサリンに魅かれ、アンとの結婚解消を急ぎ、アンがかつてロレーヌ公との婚約を正式に解消していないので王との結婚は元々無効というもっともらしい理由をつけ、この年7月に正式に結婚を解消し、アンも素直に受け入れ、城館、所領、年金、「王の妹」の称号を王から受けました。アンは最初と2番目の妃の悲劇を繰り返したくないと思ったのでしょう。しかし、この結婚を進めたクロムウエルは処刑されました。その後、キャサリン妃は浮気をし不貞の罪で2年後に斬首刑、6番目の妃は王より長く生きましたが、アンはこの妃より10年も英国で安楽に長生きし、王の長女のマリーの戴冠式にも出席し、亡くなる際には貴賎の差なく彼女に仕えた全ての人々に贈り物を残したといわれています。ヘンリー八世の6人の妃の内、王室直属のウェストミンスター大寺院に埋葬されているのは、アン・オブ・クレーヴス唯ひとりです。

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ハンス・ホルバイン(子) 1539
ルーブル美術館蔵

私の仕事はガイドです

私は、1992年にブルーバッジ・ガイドになりました。

ブルーバッジは何かと申しますと、英国観光局、文化庁などが認める公認観光ガイド証のことなんです。色々な国のガイドがいますので、英国に40言語以上のブルーバッジ・ガイドがいます。英語による勉強の後、試験を受けてやっと資格を得られます。これが、歴史や地理をはじめ、、数ある美術館、博物館、イギリスの文化も知らなければならないし、外国人である私には、とても難しかったです。でも、この勉強のおかげで、ますますイギリスがおもしろいものになってきました。今だに、次々と知らないことばかり出てきますので、万年学生みたいです。お客さんに「へー、そうだったの」と言われるのが、一番の楽しみ!


この写真は大英博物館のパルテノン神殿のフリーズの彫刻の説明中。お客さんは、京都の織物グループ、「うすはたの会」です。私の胸のバッジがブルー・バッジです。

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私は下記の団体に所属しています。


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www.itg.org.uk


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www.blue-badge-guides.com


公認日本語観光ガイド協会(Japanese Registered Tourist Guides Association)
www.jrtga.com

2007年02月04日

ダリッチ美術館

私はダリッチ・ギャラリーの日本人ハウスガイドです。小さいながら、17、18世紀にかけての絵画では有名な美術館です。1999年の改築工事の間は、東京、広島、福島、大阪、山梨、愛知で、展示いたしましたので、ご覧になった方も多いでしょう。緑いっぱいで、ここまで足を延ばせば、すっかりカントリー・サイド気分。是非、お越しください。

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壁はピンク、絵もびっしりと掛けてあり、ヴィクトリア風です。ベンチも、ジョン・ソーンのデザインです。


絵所を栗焼く人に尋ねけり

これは,夏目漱石が明治34年の日記にしるしたダリッチ美術館訪問時の俳句です。ロンドン中心より約8キロ南西に位置し、Victoria駅より鉄道で11分、駅から徒歩15分位ですが、夏目漱石の同日の日記に書いてあるように「・・・此辺ニ至レバサスガノ英国モ風流閑雅ノ趣ナキニアラズ」と、今も変わらず静かな郊外にあります。ダリッチ美術館は英国最古の公共美術館で、ナショナル・ギャラリーよりも13年も早い1811年に創立されています。

ポーランド王立コレクション

美術館が始まったきっかけがとてもユニークなのです。1790年にポーランド王が、国の美術発展のためにと、ロンドンで活躍している2人組のアートデイラーのノエル・デザンファンとフランシス・ブルジョアーに絵画の買い付けを注文します。彼らはこの注文に5年もかけました。ところが、ポーランドは隣国に占領され、王は廃位、そして亡命へと追い込まれ、大量の絵が彼等の手に残ってしまいました。売却もままならず、デザンファンの死後、ブルジョアーに譲渡された絵画は遺言によりダリッチ・カレッジに寄付されました。遺言には、これらの絵画は一般の人が見れる美術館を建てそこに展示する事、美術館の設計は当時最も斬新なジョン・ソーンがする事、美術館内部には、6人の身寄りのない老女の為の住居を付属させる事、又、同じく内部に創立者としてこの2人組とデザンファンの妻の霊廟も作る事。この驚くべき指示に設計家のソーンは興奮し、ブルジョアーの死の翌日、早速ダリッチを訪れ、現地で構想を練り始めました。彼はこれを無料で設計しました。現在でも美術館のモデルとされ、ロスアンジェルスのゲッテイ・ミュージアムやナショナル・ギャラリーのセーンズベリー館に影響を見ることができます。特に天窓のつくりが独創的で、直射日光を柔らげ、絵を見やすくしています。現在6個の老女の為のアパートメントは隣接する旧ダリッチ・カレッジの建物に移転されておりますが、今だに最初の意志どうり慈善施設として活躍しています。又、3人の霊廟は美術館の中心にあり、ひっそりと死と再生を表現する空間を創出しています。これは今だに謎なのですが、4つの棺があり、ひとつは空なのです。ジヨン・ソーンが自分の為に作ったのかも知れません。

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このふたりが、ポーランドの王様から頼まれて絵を買い集め、その絵がこのギャラリーの元となっています。いねむり中がブルジョア、帽子被ってるのがデザンファン。


ダリッチ村

ダリッチの大部分は今もダリッチ・カレッジの土地です。1619年にシェークスピアと同時代の有名な役者、マネージャー、熊いじめ等の娯楽施設で多大な富を成したエドワード・アレインがダリッチの荘園を5千ポンドで買い、貧しい6人の姉妹、6人の兄弟、そして12人の学者の為にThe College of God's Gift(神から授けられた学校)を建設しました。彼は子供がおりませんでしたので、全ての財産をこの学校に残しました。今、この学校は、有名私立校として知られており、建物は美しい新ゴシックに、名前もダリッチ・カレッジと変わっていますが、最初はこうやって始まったのです。現在、美術館はカレッジから独立していますが、今も美術館の回廊から続くチャペルには、寛大なアレインと妻が眠っています。
美術館の周囲はダリッチ・ビレッジと呼ばれ、漱石も賞賛したすばらしい公園があります。パブやしゃれたカフェ、ちいさなお店等の集まる散策にぴったりの場所です。

コレクション

最初は約350枚の絵画でしたが、今は650枚位あります。18世紀の好みを反映してバロックのものが多く、集中的に楽しむ事ができます。
1600年代から1750年位までのヨーロッパ美術は実験的で、大胆で、異なる社会のクロスオーバー等から多様性が出てきた時代で、それらが万華鏡のように展示されているのです。例えば南では今だカソリックで、教会や金持ちの為の宗教画が多く、公共に見せる為の熱狂的、宗教的プロパガンダや、大きなサイズ等が特徴ですが、北では偶像崇拝をしないプロテスタントが台頭し、肖像画や、日常生活を題材にしたり、風景や静物を小さな額絵にして一般の人々に売りました。又、それら南と北が行ったり来たりで、混ざり合ったりもしたのです。
ローマは、永遠に芸術家にとってのヨーロッパ文化の基であり、すべての芸術家を魅了しました。オランダの画家は、イタリアの金色の光と過去の栄光の証である遺跡などを描いて自国に持ち帰り、Dutch-Italianate(イタリア的オランダ風景絵画)というひとつのジャンルを作りました。低地の、曇った天気の多いオランダを、青空や陽光、遺跡、切り立った山岳等、絶対にありえない事象を空想で取り入れ、その風景の中で、大変オランダ的な牛をのんびりはべらせたりしているのですが、北の人々の太陽へのあこがれ、古代文化への畏敬等が感じられます。

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アルバート・カイプ 「牛飼い達と牛」 1660 オランダ


フランスからローマに行ったプッサン Nicholas Poussin、クロード Claude Lorrainのふたりは、時には一緒にスケッチをしたりした友人ですが、風景を正確に観察し、古代社会が残した偉大な足跡である遺跡を尊敬をもって描き、クロードはそこに物語を挿入した風景画を描き、後の風景画の流行の発端を作りました。プッサンは古典彫刻、ラファエロやカラッチの絵等から絵画の構造を研究し、その後フランス芸術の本流となる新古典主義の基を作りました。

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ニコラス・プッサン 「リアルドとアルミダ」 1628-30、ローマ


本国イタリアのレニ Guide Reni、フランドルのルーベンス Peter Paul Rubensの誇張された肉体は迫力を感じます。レンブラント Rembrandt Harmebsz van Rijnの3枚の肖像画は、画家が26才、39才、57才の時のもので、彼がいかに光と質感を描くのに情熱を傾けていたのかを異なる時代の光と陰、絵の具の厚さや筆のタッチの変化などから感じとることができます。

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レンブラント 「窓辺の少女」 1645、オランダ
ギャリーで一番の人気娘で、よく貸し出しでいなくなってしまいます。


17世紀の英国は他の国よりも絵画においては遅れていました。しかし18世紀は有名な肖像画家が出ます。そのひとりのレノルズ Joshua Raynoldsの「悲劇のミューズに扮するシドンズ夫人 Mrs Sarah Siddons」は漱石も言及しています。「十八世紀は一面にクラシカルな世である。・・・所が今言ふ肖像画は決してクラシカルな題目ではない。レノルズは此中間に立って巧みに此の二者を調和して彼の画を時勢に応じる程のクラシカルなものにしたのである。」レノルズはモデルに古典的な衣装を着せ、物語や神話の登場人物のように肖像画を描く事で人気を博していました。同時に人気のあったゲーンズボロ Thomas Gainsborough の描いたリンリー家 Linley の人々は彼の友人家族でもあり、自然な、ゆったりした、暖かさのある肖像画で、現代に通じる感情のこもった絵です。

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ジョシュア・レノルズ 「悲劇のミューズを演じるシドンズ夫人」 1784頃


有名な画家としては上記のほかに、バン・ダイク Van Dyck、ムリリョ Murillo、ワットー Watteay、テイエポロ Tiepolo、カナレット Canaretto等、約350枚を展示しております。

おわりに

このちいさな、おもしろい美術館の後ろに回りますと、霊廟の上に屋根が飛び出ているのが見えます。この屋根を見たスコットというデザイナーはインスピレーションを得て、今はたまにしか見えないですが、イギリス名物の赤い電話ボックスのデザインをしたのです。ロンドン滞在中に、静かなダリッチに是非足を伸ばして下さい。大きな公園 Dulwich Park や、森 Dulwich Wood を散歩したり、ビレッジでパブに行ったり。でもダリッチ美術館をお忘れなく!美術館は月曜日はお休みです。詳しくはホームページをご覧下さい。
www.dulwichpicturegallery.org.uk

住所
Dulwich Picture Gallery
Gallery Road, Dulwich Village,
London SE21 7AD

電話
020 8693 5254
FAX
020 8299 8700

entente cordiale

イギリスとフランスを隔てるドーバー海峡はたったの30km。今、フランスには20万人の英国人が移住して、美味と青空を楽しみ、逆に英国には30万人のフランス人が住んでいます。2007年1月30日には、次大統領候補のSarkozy氏がロンドンを訪れ、在英仏人向けの、選挙運動をしました。以下の文は、英仏協商百年を記念して、パリガイド協会サイトに寄稿したものです。
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英仏協商記念に建てた時計塔。ヴィクトリア駅の前にあり、あだ名は「リトル・ベン」。

2004年はEntente Cordiale〔英仏協商〕の百年記念で、春にエリザベス女王がパリを訪れたのを始めとして、次々と友好の行事が行われ、締めくくりは秋のシラク大統領のロンドン訪問でした。この時の歓迎の催しのひとつとして「レ・ミゼラブル」をウインザー城で上演しました。王族をギロチンにかけた歴史を持つ国の大統領をお城の中で、しかも革命思想の含まれるミュージカルで歓待なんて、本当にイギリス人のユーモア感覚溢れるもてなし方ですね。
この英仏両国の記念すべき年にロンドンガイド協会とパリガイド協会の会長がはじめて会い、交流を始めました。それまで全く異国と思っていたフランスがとても近く感じられるようになり、よくイギリス人が「フランスは兄弟。だからケンカしてもすぐ許す。」というような身近さが少し理解できるようになりました。そこで私の知っている範囲内で、英仏の関係を少し見てみようと思います。

まず、英国王室最初の王様はウイリアム征服王といい1066年にフランス、ノルマンデーから来ました。フランスではノルマンデー公ギョームと呼ばれ、領地を海の向こうに拡げたという感じでしょうか。宮廷ではフランス語を使い、墓も占領地の英国よりもノルマンデーに作りました。ノルマンデー大公の子孫達は百年戦争(1337-1453)を通してフランス離れして、イングランド人の王という確固としたものになってゆきます。それまで現地人の言葉として蔑まれていた英語の最初の小説が、この戦争中に書かれたチョーサーの「カンタベリー物語」です。現在の英語の語彙の50%はフランス語から来ているといわれます。

英国は、年に国王1534至上法が成立し、カトリックから離脱しプロテスタント国になりました。一方17世紀後半のフランスではルイ十四世が新教徒を圧迫しましたので、逃れてイギリスに住み着いた新教徒も多く、手に技術を持つ人々が多かったので英国の工芸に貢献しました。特に銀細工や織物で、ロンドンではPetty Franceでは羊毛織物、Spital Fieldでは絹織物が有名でした。

ルソーの「自然に帰れ」の思想は、英語に訳され読まれました。フランスでは革命という政治的な動きに結実しましたが、英国では文化に影響を与えました。産業革命や農村の囲い込みによる小農家の圧迫等で、18世紀中頃は人間性が無視された時代でしたので、おおいに歓迎されました。感覚と自然への愛、哀れみ等が重要視されました。ゲーンズボローの自然なポーズの肖像画や、ロンドンの公園のあまり剪定などしないのびのびと枝を伸ばした木々に、今も見ることが出来ます。しかし、革命そのものがやってこられては困るので、政府はヨーロッパ大陸への旅行を禁止しました。その時に英国人は自国の美をみつけますが、今一番人気ある景勝地の湖水地方もそのひとつです。

19世紀の英国は多くの画家を生みました。ターナーの晩年のもやのかかったような、色だけで表現しているような風景画は印象派に引き継がれ、コンスタブルの実際に見ながら描いた空や、水の流れや、木々の表現などは特にドラクロアをびっくりさせ、ラファエロ前派もフランスで人気を得ました。
今日、英国の美術館やマナーハウスへ行きますと、フランス革命時に、どさくさに紛れて美術商がどんどん買ってきた絵や工芸品があり、バッキンガム宮殿の夏季オープン時にも探せます。又ルーブルへ行きますと、17世紀英国の清教徒革命の際、売りに出された絵が回りまわってきたのではないか?と思われるバン・ダイクのチャールズ一世〔1649年、共和制政府により処刑)の肖像画や、それより約百年前の国王ヘンリー・の宮廷画家だったホルバインの絵などがあり興味深いです。

さて、今や英仏海峡トンネルが1994年に開通し、2時間35分でユーロスターで行けるようになりました。これのお陰でイギリス人の島国根性は薄まり、フランスへの移住がどんどん増えています。イギリスの食べ物はおいしくなってきており、紅茶人口は減りコーヒー党が激増する等、これからも大きく変化してゆくでしょう。パリのポンピドー・センターは英国人のRichard Rogersの設計でしたが、2004年12月完成の南仏のMillau高架橋も、英国人Norman Fosterのデザインです。優雅にカーブしていますが、これは実利的な理由ではなく、橋を通っている人が、現在通過中の橋を見ることが出来るようにという意図だそうで、とてもすてきだと思います。

天気が良いとフランスから、イギリスの白い岸壁が見えます。2005年もきっと沢山の英仏交流があるでしょう。パリガイド協会の皆様に、新年のご挨拶を送ります。

2005年 1月3日  ロンドンにて

稲垣 由美子    

2007年02月08日

雪の日

朝カーテンを開けると窓の外は真っ白。昨日、天気予報で言ってたのがホントウだったのです。雪は静かにずっと昼まで降り続けました。新聞で読むとこの10年間最高のロンドンの降雪量だそうで、私の住んでるあたりでは10センチ位積もりました。そこで、朝9時頃、近くの森”Dulwich Wood”を夫と歩きました。足跡は人間5人、犬2匹、マウンテン・バイクの跡もあります。随分少ないので驚きました。やっぱり、雪の日は出たくないかしら。私の里は雪深い北海道ですので、歩くときしきしという雪の感触、顔に降りかかる雪の冷たさ等、なつかしく感じながら歩きました。夫は映画の「シチズン・ケーン」の話をしはじめ、大富豪の主人公が、貧しい子供時代に遊んだ、橇の模様のばらが人生に於ける幸せの象徴としてるのとを、私とは全く違う場所、時代なのに、子供の頃を雪に託す心をおもしろく感じました。
30分も歩くと少しずつ人や犬が増えてきました。ひとりで、さっさと歩いている老人は”It's a beautiful day!”と挨拶を送って去って行きました。まったく美しい朝でした。でも、交通は大混乱の朝だったのです。学校も休みになった所が多く、子供は喜んだと夕刊新聞に書いてありました。

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自宅前の雪景色

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ダリッチ・ウッズの雪景色

ダリッチ・ウッズについては、ここを空けてくださいファイルをダウンロード

2007年02月11日

今日は晴れ、曇り、雨、後晴れ、そして、やっぱり曇り

今日は日曜日。来週の土曜日にダリッチ美術館で、年に一度の「世界ガイデイング・デー」のボランテイアをするので、展示換えが大好きなギャラリーを見にいってきました。面積に比べて、600点以上の収集品なので、沢山見てもらおうという考えか、しょっちゅう絵が変わり、場所も変わります。お客さんにはとても良いことなのですが、ガイドにとっては、目が離せない悪戯っ子と、かくれんぼをしてるような具合で、「あらあら、こんな所に掛かってんのね!あれをメインに話そうと思ってたのに消えちゃった!」という具合です。
土曜日のお客さんは、在英日本人の方が主ですので、漱石が感銘を受けた”シドンズ夫人”にご登場願いたかったのですが、不在。ロココの絵が多い部屋が、当ギャラリーの所蔵ではない、Brinsley Ford Collectionという新参に全部使われてしまい、大好きなヴァットーも見れません。という訳で下見は必須なのです。

イギリス人に人気のあるカナレットの特別展が行われていて、ものすごい人気で20mくらいの列ができていました。「イギリスにおけるカナレット」という題で、彼が9年間滞在し死ぬまで描いたロンドンと近郊の絵の展示です。ヴェニスの人ですので、水が大好きなのか、テームズ川が多いです。ロンドンっ子におなじみの風景が、18世紀にタイムスリップする点が人気の秘密でしょうか。これは、今までで一番集客の多い特別展になるかもしれません。

我が家から、ダリッチパークを自転車でつっきると10分かからずに行けるのですが、表題の天気は、往復の天気です。

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ギャラリーからダリッチ・パークを通って家へ戻る時の天気

2007年02月17日

国際観光ガイドデー

今日、明日は世界観光ガイドデーです。これは、それこそ世界中の公認ガイドが、沢山の方々にガイドによって普段見る所も実は沢山の歴史や、お話がいっぱい詰まってる宝庫であるという事を知って頂きたい、そして、実際にガイドの話を聞いていただきたいという願いから1987年に始まったものです。自分達の宣伝でもありますので無料で行っています。ロンドンの日本人ガイドも、毎年このイベントに参加しますが、私は毎年、ダリッチ美術館のガイドをします。理由は、ちいさいのにコレクションがすごく良いすてきな美術館だから、又自宅から近いので地域住民として、それから、日本の皆さんには夏目漱石が愛した美術館でもありますし、もっと沢山の方に知って頂きたいという気持ちからです。今年もたくさんの方々の参加で、私のガイドで絵を見ていただきました。

参加された皆さん、遠いところお越し頂きありがとうございました!

ロンドンの旅を来年2月に予定されていらっしゃる方は、日本語ガイド協会のサイトを来年1月下旬からご注目下さい。催行予定が発表されます。又、もうすぐ、参加ガイドからの報告も載りますので、ご覧になって、是非来年の国際観光ガイドデーにご参加ください。一年後のことですけど。 www.jrtga.com

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この日の服装はブルーバッジ・ガイドの青と決められていますので、私も青シャツです。

2007年02月19日

とっくに過ぎたバレンタイン・デー

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観覧車”London Eye”の基部を止めてある所のバレンタインのハート


バレンタイン・デーはとっくに過ぎたのですが、なぜこの日が特に恋人達の為のものなのか、諸説あるので、ちょっと書いてみました。こんなに色々あるんですよ。

1、聖バレンタインは二人いて、同じ2月14日にローマ支配化で禁教であったキリスト教だったので処刑された。そのひとりは、ウンブリアのテルニの守護聖人。さて、14世紀の小説家チョーサーが、鳥がつがいの相手を決めるのが、この殉死の日なので、それが、恋人達の日に転化したのではないか。
(Guide Post、 feb 2007 より)

2、3世紀、ローマ皇帝クラウデイウスは士気向上の為、兵士の結婚を禁止するが、バレンタインはこっそり結婚式をあげてやったりした。彼の殉死の日が、転じて、恋人達の日になった。又彼はキリスト教信仰のため、処刑されるが、その前夜、死刑執行人の娘に愛の言葉を書いた手紙を書いた。その終わりに”from your Valentine”、 「あなたのバレンタインより」と書いたのが、今もカードの送り主が書く元になった。最古のものは、1415年でフランスのオルレアン公シャルルが、アジンクールの戦いで負けてイギリスに連れてこられて、ロンドン塔に拘留中、妻に書いた詩だそう。
(Covent Garden, feb 2007より)

3、上の結婚式をあげてやったバレンタイン(バレンチノ)の殉死の日と、ローマ時代の”ルペルカリア祭”という、豊穣の神ユノの祭の前日が2月14日で、彼の処刑は、この祭への生贄と考えられ、ふたつが合わさって恋人の日となった。このルペルカリア祭とは、祭の前日に未婚女性たちが、自分の名前を書いたものを箱に入れ、翌日男性がそこから選んだ女性が祭の間のパートナーとなり、そこから結婚にも発展したカップルが多いそうだ。
(UK Jack, 7feb 2007 より)

ともあれ、この日は花屋が大忙し。沢山ブーケを作って、いつもの倍もの値段で売っています。たまたま私もこの日は観劇のため外で食べなければならなかったのですが、レストランも予約で一杯。早めだったので、何とか夕食にありつけましたが、周りは皆カップルばかりで、テーブルの上で手と手を載せあったり、甘い言葉をささやいたりと、いつもと違う雰囲気でした。

さて、この日の劇は、ハロルド・ピンターの冗談の短い劇の集めたもので、しかも、コックニーというロンドン下町言葉で話すもの。ウイットに富んだものらしく皆笑っているが、私には分からない!!。日本で外国人が漫才や落語を聞きに行ってると思って下さい。演目のひとつが、病人同士が電話で話し合っていて、ふたりとも瀬死の状態らしいのに、「元気かい」「とても元気よ、でも・・・(無言)にも拘わらず」というような意味のない会話がずっと続くのですが、この演目だけ分かりました。会話の・・・が英語で”in spite of・・・”となるのですが、どうもその無言が意味するところが、最悪の事らしいんですね。ネガテイブな事をはっきり言わないイギリス人らしく、これだけは笑えましたが、幕が下りてぐったり疲れが出ました。英語を聞きとるので疲れ、理解できないので劣等感で落ち込みました。私の誕生日が前日なので夫が気を利かせてプレゼントしてくれた劇ですが、やはり、プレゼントは良く考えて相手を喜ばせるものにしてもらいたいですね。

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幕間にシアター・ロイアル・ヘイマーケットより、向かいのハー・マジェステイ・シアターを見る。「オペラ座の怪人」を上演中。あれ、見たいなあ・・・と思いつつ。

2007年02月20日

ある兄弟のはなし "Complete Surrender"

この話は1ヶ月前に、新聞で読んだものです。

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Guardian  Jan 17 2007より Ian and David

始まりは、第2次世界大戦中に遡りますが、ローズさんという女性は夫が戦地へ赴いてる間に恋に陥り、子供を身ごもります。しかし、夫に見つかっては困りますので、彼が戻る前に里子に出そうと、地域新聞に「求む、生後1ヶ月の男の子の家。決して後あと、会いに行ったり、親権を求めたりしません。(complete surrender)」という広告を出します。彼をもらい受けた人の苗字はシャープさんで、レデイングという駅で渡されました。

ところが、ローズさんの夫はノルマンデー上陸作戦中、命を落とし、その結果、彼女は、この男の子の父親でもある恋人、陸軍士官のマッッキュアン氏と結婚しました。6年後に次男が生まれ、イアンと名ずけられました。長男は、約束どおり、この夫婦の子供であるのも拘わらず、シャープ家の子として育ったのです。彼の名前はデービッドといいますが、育ての母が亡くなった後、身内から自分が里子であることを聞かされ驚きます。しかし、彼は真相を探求するのを急がないで、60才になるまで待ち、救世軍の家族調査サービスに頼んで調べてもらいました。そして兄弟は出会います。

さて、弟のイアン・マッキュアンは、"Atonement", "Enduring Love" 等書き、CBEという勲章をもらう程の有名な小説家となり、兄のデービッド・シャープは工事現場で働くレンガ積み職人になっていました。ふたりの出会いは嬉しかったもので、イアンにとっては、自分に兄がいるとは想像もしていなかったので、「大きな驚き、大きな喜び」と述べています。又、お兄さんの方は、「私は弟の名前は聞いたこともなかったが、今では彼の小説は全部読んだ。でも、彼が道路清掃人でも、小説家でも、何の関係もないんですよ。とにかく彼は私の弟なのですから。」と書いてます。同じ両親の許に生まれても、こんなに違う人生を送った兄弟。弟はオックスフォード近郊の高級住宅街に住み、私立校からオックスフォード大学へ進み、有名な小説家になり、兄は南東イングランドを転々として、出合った時は、ウオリングフォードという、労働者の多く住む町に住んでいました。このふたつの町はたったの24kmしか離れていませんが、20年もの間こんなに近くにいたのです。

2007年02月21日

テームズ川にそって    Southwark

きょうは大変良い天気ですので、午前中テームズ川にそって自転車で散策してきました。サザーク地区は、私にとっては、最初に親しんだ所で、こちらに足が向いてしまいました。地図で見るとテームズ川は随分と蛇行してますが、サザーク( Southwark) は、ロンドンの南東になります。
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サザーク地区は昔から、シテイー(旧市街)への供給地、シテイーの禁じられているものが許可されている所で、昔から「飲む、打つ、買う」の、悪名高い所で、つい最近までサザークというと、近寄らない方が良いとされてきた地区ですが、この頃はすっかりファッショナブルな所として、何だかすっかり雰囲気が変わっています。そういう訳で、私がロンドンで一番親しんできた所をご案内しましょう。


ロンドン・ブリッジ駅から、テート・ブリテンという現代美術館までのテームズ川散策出発!

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ボロー・マーケットの肉屋。おじさんの山高帽にもご注目

ロンドン・ブリッジ( London Bridge ) の駅で降りて、まずはボロー・マーケット (Borough Market) 。ここは、ロンドン最古の青果市場で1276年の記録があります。10年前は、仕入れの為だけの市場でしたが、今は一般の人向けの、おしゃれな食品市場に変身。ロンドンで一番質の良い食品が買えるマーケットとして有名になっていますので、グルメの方は是非訪れてみて下さい。私の家の近くからも蜂蜜屋さんが出てます。我が家の裏庭の花からも蜜取っているのかな等と想像すると楽しいです。スナックやレストランもありますので、見るだけでは物足りない方は味見も楽しんでくださいね。

IMGP0300.jpg あれ、こんな所にポール・スミス?昔は、まともな物も買えない所だったのに、こんなおしゃれな店ができてるのでびっくり。変われば変るものですね。それにしてもどしゃ降りが突然やってきました。

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ジョージ・イン ( George Inn )

さて、ここは、川べりではなく、ボロー・ハイ・ストリート (Borough High Street)にありますが、サザークではとても重要な場所です。パブは数知れずあるロンドンですが、ここは由緒あるパブ、「ジヨージ・イン」 George Inn 。今の建物は1676年でナショナル・トラストの管理下にありますが、歴史はもっと古く、このテラスで「ロミオとジュリエット」が上演されたりしたのですよ。聖ジョージはイングランドの守護聖人ですので、真ん中の旗は、サッカーのイングランド・チームと同じなのに気がつかれましたか?ここで、イングランドの地ビール「ビター」を飲んでみてはいかがでしょう。味は少々苦く、アルコール分低め、生ぬるいのが特徴ですが、嫌な方は「ラガー」をどうぞ。これは、日本のビールのようにきりっと冷やしています。

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ホップはケントの特産。今はオフィスと店だが、昔はホップ関係の建物の飾り。

ビールに欠かせないのが、苦味をつけるホップですが、サザークはホップの大きな取引所がありました。この地区はロンドンの南東にありますので、ホップの産地であるケントから近いので、ここで取引されました。ビール醸造は臭いので嫌われたようで、シテイー内でより、ここで作られたそうです。


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グローブ座。すべて16世紀当時と同じ作り方で建設。

エリザベス1世女王の頃までは、演劇は人心をかどわかすという事で、おおっぴらにはできなかったのですが、この女王は劇が大好きでしたのでおおいに発展しました。グローブ座は最初はシェークスピアとリチャード・バーベージが1599年につくり、1644年には消滅しています。しかし、アメリカ人俳優のサム・ワナメーカーが心血を注ぎ、シェークスピアの時代と同じ形に、1990年再建したものが今建ってます。彼は建築途上で亡くなっていますが、彼の努力なしにはこの劇場はなかったでしょう。1988年の竣工式には、私も地域民として硬いコルセットの16世紀の衣装で参加し、まだ建築がはじまる前から見ていますので、感情移入します。毎年、夏には毎晩、シェークスピア劇を中心に16世紀と同じようにマイクも使わず、衣装も昔と同じで上演します。私は、観劇の前に岩波文庫日本語訳を読んでから見に行きます。安いのは立見席で、舞台にかぶりつき可が、5ポンドで、当日でも買えますので、足に自信のある方はどうぞ。


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ミレニウム・ブリッジ 200年記念橋

グローブ座からちょっと歩くとテームズ川にかかるミレニアム・ブリッジが見えてきます。とても薄い感じで、しかもシャープな緊張感もある2000年記念の橋ですが、女王がオープニングした後あまりにも沢山の人が歩き、強風が吹き、揺れが激しかったものですから「揺れる橋」という汚名を被り、補強されて4年後再オープンしたものです。テームズ川の水位が低くなると、ケルトやローマ時代の宝物が出てこないかと、探す人もいっぱい。


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テート・モダーン内部。入ってすぐのタービン・ホール。


テート・モダーン (Tate Modern)いつも疑問を投げかける作品で悩ませてくれる、正に芸術的美術館。でも、特別展のらせん状のものは、最上5階からのすべり台で、すごい悲鳴が常に聞こえるホラー芸術。これは、4月9日迄展示。現代美術館です。元々は火力発電所だった建物を、美術館にしたものです。この巨大な建築は、スペースを要する現代アートに最適。


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ウインチェスター・ハウスの壁。なんでこんな所にあるの?昔は、このバラ窓にステンドグラスが入っていて、そして、この建物の中では、あんな事が起こっていて・・・と想像すると楽しい。


サザークには、ウインチェスター司教の館がありましたが、1629年年以降は、力を失い売ってしまいました。倉庫になり、あげくの果ては新しい建物の一部になって、隠れてしまっていたのですが、1814年の火事の際出現。なかなか感動的です。

ガイドブックにはあまり登場しないサザークですが、いかがですか。傘をお忘れなく!

2007年02月22日

花だより

ロンドンの春を告げる最初の花は、公園の芝生を、紫や黄色で色付けるクロッカスです。ある日突然出現しますので、見つけると「あ、春が来たのね」と嬉しくなります。水仙は色々な種類があり、派手な大柄なものから、背丈の低い控えめものまであり、色も白っぽいのから、濃い黄色まであり、あちこちで咲くのを楽しみに公園や、よその庭を覗きます。ロンドン中心地でしたら、バッキンガム宮殿そばの公園、グリーン・パークと、セント・ジェームス・パークが、女王在位50年記念に大量に球根を植えましたので、あと1週間もすると見事だろうと思います。下記の写真は近所のものです。それから、何といってもアーモンドの花が私は大好きです。最初は桜かと思っていました。色もきれいなピンクですし、葉っぱが花が終わった後出てくるのも桜と一緒なんです。でも、幹を見て桜の皮と違うので、やっと理解したという具合。長い冬の間おとなしくしていた黒っぽい大木に、ピンクのもやが、かかった様に見えるアーモンドは、段々と日が長くなる兆し、重いコートを脱ぐ時期が近いシグナル、暖かい風がやってくる期待など・・・私にとっては、春の喜びを感じさせてくれる木です。

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自転車から見たアーモンドの木

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ダリッチ・パークのクロッカス

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ホーニマン・ミュージアムの庭で咲く水仙

2007年02月23日

ビートルズ大好き!  Beatles Walk

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郵便物に張られてるのを見ないので有名な、ビートルズ切手。売り出されると、世界中からのネットでの注文殺到。私の切手も注文してから1ヶ月半後到着でした。


長い間楽しみにしていたビートルズ・ウオークに一昨日参加しました。私は中学生の時、始めてビートルズを聴いて、やっと自分の心から好きな音楽に出会えた!と感激しました。もう夢中で、レコードを買い集めたものです。イギリスという国も、「ビートルズのいる国」として頭にインプット。まさか、その国に住むとは夢にも思っていませんでした。

そういう訳ですから、このビートルズ・ウオークは、わくわくして待っていたイベントで、元気に歩き回りました。ガイドも冬は暇になりますので、色々な勉強のコースが設けられますが、これもそのひとつ。そういう訳で参加者は全員ガイドで、案内役もブルーバッジ・ガイドです。ですから皆仲間なので、和気アイアイと、雨の中、きょろきょろ見て回りました。

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サビル・ロー (Savile Row) この通りは昔から紳士服の仕立て屋が多い。ここから、日本の「背広」という名が、紳士服につけられる。


ピカデリー・サーカスから、サビル・ロー。ここの3番の屋上で ’Let It Be' が録音されたのです。その時は、ビートルズの演奏が、どこからとも知れず流れてきて、人々は吸い寄せられるように、ここに集まり、警察はたったの450mしか離れていないのに40分もかかってたどり着く程の混みようだったそうです。最後の曲が’Get Back’(戻れ!)だったのは皮肉?

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アビー・ロード・スタジオ (the Abbey Road Studios ) ここで、ビートルズの録音の90%が行われた。


ここから、ソーホーやオックスフォード・サーカス界隈で、彼らの映画のプレミアのあった劇場などを見て、バスと地下鉄を使って、アビー・ロードへ。ここで、4人が横断歩道を通っている写真が、レコード・ジャケットに使われて有名になりました。この日も沢山のファンが車の迷惑を無視して記念写真を取っていました。私達もいつもはガイドですが、この日は観光客になりきって写真を撮ってもらって大喜び。

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私達のガイドのレイ・スミスは、かっこいいブルーバッジ・ガイド。


あー楽しかった。皆で60年代の少年少女に戻り、おおいにはしゃぎ、いかに自分がビートルズに影響を受けたかを熱っぽく話し、雨も何のその。参加者のひとりは、リバプールから一泊で、この為に来ていました。彼女も若い頃はビートルマニアで、キャーキャー言って追いかけていたそうです。ファンは、彼らの人気が次第に上ると、リバプールからいなくなってしまう予感で、返って淋しかったそうです。私は武道館でのコンサートの券が抽選で落ちてしまい、がっかりした事を思い出しました。

今は、ポールとリンゴしか残っていないビートルズ。でも、彼らの曲が流れてくると、若い時の、不安、興奮、希望などの混じった感情が見えてきて、瞬時、現在の自分から抜けるように感じます。ビートルズ
大好き!

2007年02月26日

テート・モダーン7階 Tate Modern level 7

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テート・モダーン7階の窓からのながめ。良い天気です。

テームズ川そばの現代美術館テート・モダーンで、アートを楽しんだ後は、最上階に行き、コーヒーで一休み。向かいに見えるのは、テームズ川と北岸のシテイー地区で、ひときわ目立つのが111mもの高さの堂々たるセント・ポール大聖堂です。ロンドンの空がいっぱいに広がり、この風景と一緒にコーヒーをもっとおいしくしてくれます。

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Level 7 Bar and Restaurant, バー、レストラン。とはいえ、昼間はコーヒーを飲む客の方が多い。


2月21日の散歩でのひと時です。散歩本文「テームズ川にそって」は、この日付けの項をご覧ください。

2007年02月27日

衛兵交代にセーフ!! Guard Change

一昨日は空港へ迎えに行き、それから市内観光の卒業旅行グループの仕事でした。彼らの飛行機の到着時間は10時10分のはずだが遅れて、しかも38人なので全員集まると11時。この日は衛兵交代のある日(冬は隔日)なので、是非見せてあげたいと思い、てきぱき荷物積み込み、バスの運転手にも急いでもらって、バッキンガム宮殿に直行。衛兵交替式は11時30分から30分間行うので、12時に式を終わり、バラックへと向かう衛兵の行進が見られる。到着は12時2分前なので、皆で走って向かう。でも、この日は式が遅れ気味で、まだ衛兵は宮殿の前庭で交替式を続行中。皆でほっとして、少々待ち、無事衛兵の行進を見れました。
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冬は衛兵も寒いので、赤い制服ではなくてグレーのコートです。


衛兵交替の時間、その他詳細は、このサイトを見てください。部隊による制服のボタンの並び方の違いや、帽子の飾りの色の違いも図解入りです。月ごとの予定 (about the regiment)、見やすい場所(schedule) など詳しく案内しています。
http://www.changing-the-guard.com/


衛兵交替メモ

地下鉄駅は St James Park, Victoria, Green Park などが近いです。
4月から7月の間は、毎日交替式を行います。その他の月は一日おきです。雨の日は中止となることもありますし、変更もありますので、ご了解ください。交替式は、原則的には、朝11時半から12時の間です。式そのものをご覧になるなら、11時前にバッキンガム宮殿前の塀の傍で待機していないと、沢山の人が早めに来て見やすい所はなくなってしまいます。 それよりも、式に向かっての行進(11時10分頃)、又は終わって出てくる行進(12時頃)をお勧めします。衛兵は、普段は、迷彩服にベレー帽で戦闘訓練を受け、戦地にも行く志願兵です。

観光客が一番集まる所ですので、スリにご注意くださいね。

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