2010年05月23日

2010年5月23日、ロンドンより・・・

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もう8時過ぎだというのに、まだまだ明るいので、台所の椅子に座って足を伸ばして、ワインを飲んでリラックス。ドアを開けっ放しにして、外からの風を楽しみました。今日は日曜日で、26度まで気温が上がり、夏のような開放的な日でした。

今朝は、バッキンガム宮殿でお客さん達と会う事になっていましたので、早めに行き、カフェでコーヒーを飲んでいましたら、次々宮殿周辺で働く人たちがやってきました。宮殿前の庭師達、道路工事の人達、その他、出たり入ったりで、賑わっていました。

そして9時前になり、私も「さて、」と立ち上がろうとしますと、「グッド・モーニング!」と、見たことのある顔のおばさんが、挨拶をして通り過ぎました。その後を行くおじさんも見憶えがあります。何と、この二人は、お客さんに注意をお願いしている悪名高い写真屋なのでした。最も簡単なカメラで、観光客の写真を撮り、高い値段を言ってくるのですが、あるお客さんは、50ポンド(約7500円)も払ってしまいました。

9時過ぎると、カフェは空っぽです。バッキンガム宮殿は、各種の仕事を人々に与えているというのを実感した朝でした。私もそのひとり! 9時には、宮殿の傍で、グループを待っていましたから。
青空の下、宮殿の周囲で、それぞれ、自分の仕事をこなすために集まる人々に、仲間意識を持つ一瞬で、迷惑な写真屋の二人にも、同じ感じを持ってしまい、自分で笑ってしまいました。


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夏のロンドンは短くて、花がとても綺麗で、人々も、明るい軽い服装で、外で食べ、飲み、精一杯夏を楽しもうとします。冬が暗くて長いので、嬉しい季節です。この写真は我が家の庭の「あじさい」と「ばら」。こんなに小さい蕾ですが、来月はきれいな花が咲くでしょう。

2010年04月11日

アーツ・アンド・クラフト運動の種であるレッド・ハウス  Red House, The Seed of The Arts & Crafts Movement

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Red House, Bexley Heath, Kent

先週、ウイリアム・モリスが結婚して建てた家「レッド・ハウス」を見に、自転車を電車に乗せて行ってきました。赤レンガで建てられているので、「赤い家」というニック・ネームがついています。1859年に建てましたが、当時としては、何もかも斬新なアイデアに満ちた家でした。

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庭から見たレッド・ハウス。この日のガイドは、モリスのことなら知らないことはない!という位の知識で、雨が降っても全然気にならない楽しさ。

建物は上の写真のようにL字型です。さて、どのような経緯で、この家が建てられたかをお話したいのですが、まずは、ウイリアム・モリスのオックスフォード大学時代の話から始めなければなりません。

1853年に、オックスフォード大学、エクスター・カレッジに入学したモリスは神学を学びます。そこで、バーン・ジョーンズに出会い、生涯の友人となります。二人でフランスを旅して、元々好きだった中世のカセドラルや城を見て、神学を捨ててアートを一生の仕事にと決めました。

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レッド・ハウス玄関ホールの窓。ステンド・グラスはバーン・ジョーンズ作で、周囲の花の絵はモリス、鳥はジョーンズが描く。下手なので、ガイド曰く「多分ふたりとも、ワインを飲みながら、気ままに描いたのでは・・・」とのこと。

バーン・ジョーンズは幼い頃より画才に優れ、有名な画家となりますが、モリスは建築に興味を持ち、新ゴシック建築設計家、G.E.ストリートの事務所で働き、そこで、レッド・ハウスの設計を依頼した、フィリップ・ウエッブと知り合いになります。その後、オックスフォード大学生協の建物の壁画をバーン・ジョーンズと共に依頼され、アーサー王伝説の絵を描きましたが、これが後のレッド・ハウスの内装に大きく影響を与えています。この仕事の最中にダンテ・ガブリエル・ロゼッテイと知り合いになり、彼のモデルである19歳の馬番の娘、ジェーン・バーデンに会い、すっかり恋してしまい、2年後に結婚しました。

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ここがL字型の2棟の接点である階段ホール。明るくて、手すりも尖ったゴシックが入り、小さな丸い穴は子供が覗けるようにだそう。カップ・ボードの絵はモリス描。壁は今は壁紙ですが、当時は真っ白で、壁紙やタペストリーなどのキャンバスとしていたそう。光がいっぱい入る南棟は、台所で、窓も大きく、使用人が庭を見ながら、明るく楽しく仕事できるようにとの配慮からで、当時としては革新的でした。又、レンガというのも、安い建材ということで、地位のある人は石を使ったそうで、これも新しいものでした。土地を買った時にあった木々も、伐採に注意して、窓から風に乗ってリンゴの花の香りが漂ってくるようにとか、窓の下の傾斜も夕日を浴びた時の影の美を考えてとか、ウエッブにとって最初の注文住宅を完成させたのです。


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モリスがデザインして、妻のジェーンが刺繍したカーテンのレプリカ(本物はケルムスコット・マナー)で、「デージー」柄。この自宅の装飾をしていて、モリスはその後の家具や、布地のデザインに対するインスピレーションを、更に広げていったのです。さて、この当時、なぜ中世のゴシックが取り上げられるのかと、不思議に思うかもしれませんが、19世紀のイギリスは産業革命で工業化の真っ最中でした。当時の批評家、ジョン・ラスキンは、機械製品は古よりの人間の技を捨てることであり、労働者が機会の奴隷になってしまうとして批判し、又生活が向上した人々は過剰な装飾を好み、素材の美や用の美を無視しているが、ゴシックには、人間性回復の望みと永遠の美があるとし、モリスも彼にすっかり傾倒していました。そこには、社会主義的な考えも多分に含んでいるのです。

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資料室に展示してあった、モリスの布の木版。この版を使って、植物染で美しい布を作ったのだ・・・と想像するだけで、ドキドキしたもの。彼は、会社を作り、壁紙や布、家具などを作り、すべての人々が美しいものに囲まれて生活できるようにと思ったのだが、結果的には、これらの手作りのものは値段が高く、労働者には手が出なかったのです。彼も家族との楽しい生活をレッド・ハウスで過ごそうと建てたのですが、ロンドンのオフィスまでの通勤も今のように鉄道や馬車も安くはなく、子供も2人になり、使用人もいるし、経済的に住み続けるのが難しくなり、5年後には手放してしまい、ロンドンに引っ越しました。その後ここへは、あまりにも辛いからと1度も訪れていません。

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バーン・ジョーンズが描いた、モリスが二人の娘に肉を切ってあげているスケッチ。娘の回想によると、モリスが大きな椅子に座ってるところは、まるでアイスランドの勇敢な戦士のようだった・・・そうです。


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さて、この生活の美に対する関心は、「アーツ・アンド・クラフト運動」と名ずけられ、世界中に伝播しました。国内においては、建築では、1900年前後はレッド・ハウスに傾倒したものが多くみられますし、手工芸ギルドが多数生まれ、コミューンを作って制作したり、又「リバテイ・デパート」もオリエンタル・アートと共に、手作りの家具を積極的に売る店として始まっています。デザイナーのバンデ・ベルデや、アール・ヌーボー、スコットランドのマッキントッシュ、オランダのデ・ステイル派、ウイーンのセセッション派、後のドイツのバウハウス、そして日本の民芸運動にも影響を与えていて、後のモダニズムへと続くのです。アメリカでのフランク・ロイド・ライトもこの線上にあると思います。レッド・ハウスを建てた時の、ラスキンの思想のもと、建築家のウエッブ、内装のモリスにバーン・ジョーンズの考えと実践が、「アーツ・アンド・クラフト運動」の始まりとしますと、ここはその聖地なのです。


訪れる方は、開館時間がシーズンにより違いますので、確かめてからをお勧めします。電車はチャーリング・クロスやロンドン・ブリッジから出ていて、ベックスリー・ヒース駅Bexley Heathから徒歩10分以内です。ワンデー・カードの6ゾーン内に入っています。

2010年03月28日

ビクトリア・アンド・アルバート美術館での英国キルト展 Quilts 1700-2010 at V&A

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ビクトリア・アンド・アルバート美術館は、膨大なキルトの収集品があるのですが、やっと3月20日から美術館初めてのキルト展が開催されました。1700年代から現代までの作品、70点以上が展示されていて、内外から注目を集めていて、前評判も高く、私も楽しみにしていました。実際に行ってみますと、ひとつひとつのキルトに含まれている内容の重さに圧倒される思いでした。絵画と違い、実際着ていた服などが素材として使われ、又作った人々の心、布を集めたり縫ったりするという時間や動き、背景にある時代や政治状況など、布という全く日常的な素材を介して表現されていて、芸術家ではなく、普通の人々が作ったもので、想像すればする程、生なましくて、人間っぽくて、ぞくっときました。


パッチワークというのは、言葉どおりの継ぎ合わせですから、昔は貧しい人々は、服が擦り切れると、使える部分を切り取って、つぎはぎして、布団を作ったりしていましたが、彼らの作ったものは、布が摩耗してしまって、古いものは全く残っていないそうです。今回展示してある1700年代のものは、絹の服の再利用だったり、全く新しい布を使って、当時大流行のインドからの更紗(チンツ)を使ったりしたもので、中流以上の婦人の作品やプロの作品のようです。あまりにもインドの更紗が売れて、英国製布が売れないので、1720年から1774年までは輸入禁止となったそう。それで、イギリス製のプリント布が発展したが、上のパッチワークもイギリス製の布。

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これは、1700年位のパッチワークの裏側。新聞紙は型紙だそうだが、200年間に修繕して代々使われきたのが分かって、縫い目を見ると、部分によって縫い方が違っていて、どんな人が関わってきたのかと考えると、色々と想像が湧きます。今回の展覧会は、社会的、感情的、歴史的にキルトを分析していて、とても興味深いのですが、私が惹かれたキルトを、少しだけご紹介したいと思います。

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cover, 1863-1877, Francis Bailey,238,7x238,7 cm

このキルトは、1864年から77年にかけて、軍人さんが作ったものです。作者のフランシス・ベイリーは、インドに派遣されましたが、戦闘もなく、暑くて、精神的にかなり参っていた時に作ったそうです。小さな六角形の布は直径1.5cmという細かな仕事で、布は軍服のメルトン・ウール。軍部は、軍人が暇になると酒を飲んだり、良くないことをしでかすので、積極的にキルト制作を奨励したそうですが、銃からキルトというのは、平和的で良いですね。それにしても、この凝りようは、男性的といえるかもしれません。


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coverlet, The Changi Girl Guide Group, 1943, 188x 96 cm

日本がシンガポールを占領した時にチェンギ刑務所に収容されていた、英国人の8歳から16歳の少女が、ガール・スカウトを内緒で作って、看守の目を盗んで作ったキルトです。当時の夏のドレスの布を使っており、自分達の名前も刺繍してあり、突然の占領で自由を失った少女達の夢や希望が込められているようで、見ていて切なくなるキルトでした。


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coverlet, Griselda Lewis, late 1940s, 238x239 cm
このキルトが私が1番欲しいなと思ったキルト。戦後すぐの作品で、黒のバックグラウンドとなる布は、戦争中に、夜間に光を漏らさないように使った遮光カーテンからで、柄となる布は布地見本のスワッッチや、古いドレスやシャツから。裏地は赤十字の食糧援助に使う袋の布からと、まったく最低限の原料から作った作品なのですが、戦争が終わった喜びと、色や感情をのびのび使える自由さにあふれているように思います。「クラフト・ハンドブック」という雑誌の編集者だった作者のセンスの感じられる、ものすごくモダンなキルトでした。彼女の最初にして最後の作品だそう。


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Liberty Jack, Janey Forgan, 2008, 165x160 cm

リバテイ・ジャック Liberty Jack という作品。1960年以降のロンドンのリバテー・デパートのリバテイ・プリントを使って、英国旗である「ユニオン・ジャック」を模ってパッチワークにしてあります。小さな柄が点描画のように微妙な色のハーモニーを作っています。本来のユニオン・ジャックは、3色ですが、2009年制作の作者の意図は、「私たちは、赤、青と白だけのイギリスではない」という事だそうで、多人種国家となっている、イギリスを現わしているそうです。それから、「リバテイ」は「自由、解放」という意味なので、その意味も込められているのではと、思います。


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Memoriam, Michele Walker, 236x144 cm

実はこの作品が最も心に残りました。金属ワイヤー綿を、クレージー・キルトの方法で透明プラスチックに作者の肌の型押しをしたもので綴じ合わせたものです。作者の母親はアルツハイマーにかかり、何でも忘れてしまうのですが、日常の全く意味のないことに執着して、椅子に座っては自分の髪を捩じりじっとしていたそうです。この作品は、本来なら暖かく安全であるキルトを、金属ワイヤにして、冷たくて、空気に科学反応して崩壊してゆく、もろいものとして、又美しい布をパッチワークにするところを、自分の肌の型押しにして、逃げるに逃げれない自己と、老いてゆく変容を現わし、周りのワイヤは捩れて、意味のない髪の毛をよじる行為を見せているそうです。自分自身もだんだんと老いていっており、この現実直視の「思い出」という作品は、怖い作品でした。

展覧会は7月4日まであります。テキスタイルに興味のある方は是非訪れて頂きたい展覧会です。

2010年01月22日

ロンドン塔の住人 (ロンドン塔9) the Residents in Tower

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ロンドン塔についてのご案内も9回目になりました。今回はそこの住人についてです。(実は、人ばかりではないのですが)上の写真は、お土産やさんで。こんなのを買う人がいるのでしょうか?

エリザベス1世以降は、王族は全く住むことはなくなりましたが、「ロンドン塔ビレッジ」とでも呼んだらよいような感じで、人々が住んでいます。観光客が皆去ってしまいますと、ヨーマン・ウオーダー(ニック・ネームはビーフ・イーター)と呼ばれる、22年以上軍役を務めた35人の退役軍人の家族、駐屯している軍人たち、それに教会関係の人々などの村になり、子供が遊んでいたり、1軒あるパブでビールを飲んだり、教会での礼拝など、どこでも見られるような、普通の生活を送っています。だいたい150人位住んでいるそうです。

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ヨーマン・ウオーダー。彼らは大きな声で観光客にロンドン塔の説明をしたり、守備という仕事もあります。昔は監獄の監理の仕事もあったが、現在はありません。恐ろしい話が得意で、観光客の怖がってるのを楽しんでます。制服はチューダー朝風で、めでたい日などは、花のついた帽子、もっと金ぴかの服で、とてもかわいくなります。


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でも住んでいるのは、生きている人ばかりではありません。上は、ビーチャム・タワーという塔内部で、収監されていた人達が残した落書きです。書いたのではなく、石灰岩の壁にひっかいたり、彫ったりしたもので、識別できるものでも70以上あるらしいです。国の宗派がカソリックになったりプロテスタントになったりする度に改宗しないと罪人にされるのですから、大変な時代の16,7世紀に集中してのものだそうです。

さて、このビーチャム・タワーは2階あって、下階には上階の様子が映っている、テレビ・スクリーンがあります。そこで、何の気なしに見ていますと、観光客の他に、シェークスピア劇から出てきたような衣装の男性が数人、透明人間のような感じでうろついているではありませんか。「おばけだな!」と思って見ていました。きっと、過去にたまたま映ったこのビデオを観光客の為にわざと見せているのだろうと思いました。
その後、学生さんをガイドする為にロンドン塔を訪れた際、ビーチャム・タワーで「お化けビデオ」を見れますよ・・・と申しますと、何とその後、彼らから「ガイドさん、嘘つき!!全然見えなかった」との事。
そこで、やっと私は映像がビデオではなく、上階の監視カメラで、リアル・タイムの映像であるという事を認識しまして、あのお化け達は私が下階にいる時、実際にいたのだということが分かったのです。
まあ、ここにはお化けも沢山住んでいるようですね。霊感の強い方には、面白いでしょうね、400年位前の人々の話が聞けて。

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お次はカラスです。
大ガラスの種類だそうで、「レーバン」と言います。もともとロンドン塔には渡りガラスが来ては、ゴミをあさったりしていたようですが、現在のカラスは、西のウエールズから若鳥を連れてきて、「カラス匠」に任命されたヨーマン・ウオーダーが面倒を見ている大切なカラスです。言い伝えでは、「カラスがいなくなれば、ロンドン塔は倒れ、王国も没落する」そうで、必ず6羽いなければいけないそうです。それで、飛んで行ってしまわないように、羽根を切り、又スペアとして2羽入れて常時8羽飼っています。そういえば、エドワード王子の離婚の際にカラスが一羽、塀から落ちて死んだというのを思い出します。

ロンドン塔については、まだまだ話がありますが、今回はこれにて終了させていただきます。是非ロンドンへいらっしゃったら訪ねてみてください。


2010年01月17日

目が眩む宝物館、クラウン・ジュエル(ロンドン塔8) The Crown Jewels

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帝国王冠 The Imperial State Crown

今日は、ロンドン塔で1番人気のある「クラウン・ジュエル」という宝物館をすこしご案内いたします。
しっかりと監視されている、厚い金庫のようなドアを通ると、誰も見たことがない程の宝石で飾られた王冠をはじめとしての、王室の宝物を見ることができるのです。

上の王冠は、女王が毎年国会開会式や、公式行事の時被る、帝国王冠です。2800個異常のダイヤモンドが嵌め込まれています。特に毛皮のすぐ上のダイヤは「第2のアフリカの星」と言われ、317カラットもあります。それよりも、この王冠には歴史的価値が非常に高い宝石が使われているのが特徴です。

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エドワード懺悔王 (1042-1066在位のサクソン、最後の王)

まず、頂上の十字の中心のサファイアですが、エドワード懺悔王の死体の指に嵌められていたと言われています。この王は憐れみ深く、乞食に自分の指輪を施したそうですが、その乞食は、実は福音書記者ヨハネだったそうです。ステンドグラスは、ウエストミンスター大寺院のものですが、指輪を持っていますね。

そして、下の十字の中心のルビーは、「黒太子(ブラック・プリンス)のルビー」と呼ばれ、元はムーア人のものだったのを、スペイン王が手に入れ、黒太子に贈ったものです。王冠に赤色の宝石をつけるのは幸運をもたらすと言われ、ヘンリー5世はフランスとの戦いの時はヘルメットにつけ、危うく助かったという話も残ります。

それから、滴型の大きな真珠ですが、多分エリザベス一世女王のイヤリングだったのではと言われています。「ハノーバー真珠」と呼びますが、教皇クレメンス七世が、カトリーヌ・メデイチ(フランス王と結婚する)に与えた25個の真珠のネックレスを、息子の王子のスコットランドから嫁いだ妃メアリーに贈り、後にメアリーは処刑されましたが、その後エリザベス一世が買い求め、それを後の王ジェームスが引き継ぎ、ドイツ王家に嫁いだ娘に贈り、息子が英国王としてロンドンへ来た時から王室の宝物の一部になったというものです。


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十字架付き王しゃく 

この王しゃくは、君主の支配者たる権限を現わしているそうですが、世界最大といわれる530カラットのカット・ダイヤモンド「第一のアフリカの星」が付いています。1907年、南アフリカで3106カラットの原石が発見され当時の王に献呈され、これが「アフリカの星」と呼ばれるダイヤに分割されたのです。


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上の王冠、王しゃく、そして宝珠(地球を地上と見立て、キリスト教の至上性と君主の忠誠を現わす)が3種の神器として、女王が身につけている1953年のエリザベス女王。まだ27歳という若い美しい女王です。戴冠式そのものでは、2.5kgという重たい王冠を被りますが、儀式終了後は、帝国王冠にすぐ変えています。


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神の正義の剣、俗事の正義の剣、仁慈の剣

沢山の展示物がありますが、その中でおもしろいのは「仁慈の剣」で、おもしろい事に、ラテン語で「カタナ the Curtana」と呼ぶそうで、剣の先が折られています。言い伝えでは、9世紀デンマークの王が息子の仇を討とうとすると、神の使いが現れて「情けは仇打ちに勝る」といい、この剣の先は欠けたままだそうですが、その話から3本の剣の内のひとつになったそうです。

人気ナンバー・ワンのクラウン・ジュエルですから、観光シーズンは長蛇の列ができます。楽しい目の保養です。

2010年01月14日

煙草とじゃがいもを、もたらした男 (ロンドン塔7) Sir Walter Ralegh

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かっこいー!! クライブ・オーエン演ずるウオルター・ローリーWalter Ralegh (1554-1618)。
映画「ゴールデン・エイジGolden Age」より

エリザベス一世の「お気に入り」は他にもいました。それが、ウオルター・ローリーです。彼は、地方の騎士の息子ですが、オックスフォード大学や法学院で学んでいますが学位を取らず、もっぱら実際に活動する方を好んだようで、北アメリカ探検に付いていったり、アイルランド暴動鎮圧に行ったりしていました。その内に女王のお気に入りのレスター伯爵の取り成しで、宮廷に参加するようになり、女王にお目通りとなった訳です。

彼はたいへんなおしゃれで、ダンデイだったらしいです。有名な話では、泥道を女王が通ろうとしている時、居合わせたローリーは、自分の新調のマントを、ぱっと脱いで、その泥道に掛けて、女王の足が汚れないように通って頂いたというもので、「うわー、きざな男!」という感じですが、誰だって感激しますよね。ローリーは女王の心を掴みます。

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どれ位、彼がおしゃれだったかは、このミニチュアのローリーの肖像画をご覧ください。(ビクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵)ロマンチックな表情といい、髪に何かふりかけていたり、さすが君主が女性なので、何だかマッチョな感じは薄くて、やさしい女性的な感じである。時代により、求められるものが違うという事が、感じられる。

ある外国の大使の記録によると、女王が自分のハンカチでローリーの口を拭ってあげたという話も残っています。女王に気に入られて、専売権や議員の地位など与えられ出世しますが、彼はそのお金も女王を喜ばせる為に惜しげもなく費やしました。愛の詩も沢山書いています。

海軍提督の地位も与えられ、アメリカへ再び行き、現在のノース・キャロライナの海岸地方を植民地として、処女女王にちなみ「バージニア」と名ずけて、女王に進呈し、喜んだ女王から騎士の称号を貰いました。アメリカからのおみやげは、今ではイギリスの食事に欠かせない国民食とでもいえる「じゃがいも」と「煙草」を持ち帰りました。100人の最初の移民を送りましたが、冬が厳しすぎて、結局は失敗していますが、とにかくも後の膨大な植民地の最初だった訳です。


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女王は、いつもこのように男性に囲まれていました。この時代の男性のファッションは歴史上、一番おしゃれではないかと思います。1960年代にピーコック革命とか言って、男性が飾り立てた時代がありましたが、この時代も同じような気がします。

ローリーは、そのように女王のお気に入りだったのですが、前回取り上げたエセックス伯が登場し、完全に捨て去られた訳ではありませんが、寵愛が薄まってゆくのを感じたのでしょうか、女王の待女のべスと秘密結婚をし、子供をもうけ、女王の怒りをかい、謝るように強制されますが、ローリーは誇り高い男で絶対に謝らないものですから、ロンドン塔に送られましたが短期間で、許されています。エセックス伯が女王のお気に入りになっているのですから、ローリーはもう、そういう地位ではありませんが、女王が崩御するまで忠誠を尽くしました。

ところが、スコットランドからの新しい王は、エリザベス一世を廃位させて自分を即位させようと反逆を起こしたエセックスの一味を擁護し、ローリーは女王を守っていましたので敵視していますし、洗練されて賢いローリーを、嫉妬と共に憎みます。そして貴族たちの権力争いに、王も彼をなきものにしたいとの気持ちもあり、無実の反逆罪にされてロンドン塔へおくられ13年間も拘留されたのです。

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ここがローリーの滞在した部屋で、現在も彼の使っていたようにして見せています。ブラデイ・タワー(ロンドン塔の王子が暗殺された場所でもある)の中です。妻のベスや子供も住み、何とここで子供も生まれています。上階も彼の為に作って、植物研究の為に庭も作り、薬草その他を調べていました。王妃がたまたま訪れ、ローリーの素晴らしい人柄に感心して、皇太子ヘンリーの教師にしたのです。この部屋で「良い王になるための」各方面の授業をしました。王子は父王が大変偏狭であることを知っており、ローリーの所で、伸び伸びと学んだようです。王子の為に大書「世界の歴史」を書き、後出版し、大変評判を得たようです。王子は父王にローリーの釈放を頼んでいましたが、突然病死してしまい望みを絶たれてしまいました。

ジェームス王は、ローリーが人々に人気があることを知っていますので、簡単に処刑できません。そこで、スペインと密かに謀って、ガイアナを奪取する機会を彼に与え、これが成功したら恩赦で釈放、失敗したら死刑という条件でローリーを船出させます。彼はすでに行ったことのある所ですので、受けますが、何十年も経っており地理も変化が多く、兵器も変わっていますし、もともとスペイン側が、この作戦を知っていますので妨害し、連れていった息子も戦死し、年老いた自分も病気になり、不成功に終わり、帰国しました。

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老年のローリー

遂に1618年10月29日、ウェストミンスター寺院そばで処刑されました。沢山の人々が集まる中、彼はいつものようにエレガントな服を身につけ、今まで例のない、45分間という長い最後の言葉で自分の潔白や思いを述べ、「斧の影は怖いからね。私が斧を恐れると思うかい?」と目隠しを断り、怖じ気ずく執行人に「何を怖がってるのかね、早く振り下ろしなさい、君、ふりおろしなさい」と言ったそうです。

彼の最後の言葉は、人々に大きな感動を与えました。後の市民革命の主導者となる人々も、その内におり、ローリーの著作と共に彼らに影響を与え、この処刑の30年後には、王が処刑されるという事態まで起きたのです。又今では非人道的と思える、外部へと広がる植民地拡大の考えも、広く浸透させました。良きも悪しきも彼の思想は、死後やっと実行されたといえるでしょう。

雪の日々  Snowy Days

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この冬は異常に寒くて、いつもなら雪が降っても長くても、4日もすれば完全に溶けるのですが、この冬はクリスマス前、それに先週から又雪が降ったり止んだりですが、気温が低いせいか、なかなか解けずに凍って、又昨日はしんしんと雪が降りました。通常なら、曇っている日が多いけれども、メキシコ暖流のおかげで、北緯51度という北に位置している割には、それ程厳しい寒さではないのです。

上の写真は昨日、ダリッチ・ギャラリーまで歩いて行った途中のダリッチ・パークですが、真っ白で、喜んでるのは子供達でした。大きな雪だるまも作られていました。

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クリスマスの後に、近くの森 Dulwich Woodで撮ったもの。教会もまるでクリスマス・カードに良いように真っ白。

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昨日、我が家の庭を窓から見たところ。室内の花は今年もきれいに咲いてくれたので嬉しいです。鳥のために、餌の玉を木にぶらさげておきました。

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昨日のダリッチ・ギャラリーの前も、このように雪でした。中に入ると、いつもは背広を着ている人たちが、普段着のセーター姿でうろうろしていて、やっぱり誰もが寒いんだなと実感。「太郎の屋根に雪降り積もる、次郎の屋根に雪降り積もる」と、夜中に目を覚ましてつい口ずさんでしまいましたが、さしずめイギリスですから、「ジョンの屋根にも、イアンの屋根にも雪降り積もる」といったところでしょうか。

今日は3度あり、随分解けました。

2010年01月13日

エリザベス一世のお気に入り (ロンドン塔6) Beth's Favorites

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サザンプトン伯爵 Earl of Southanpton エセックス伯の女王に対する陰謀に加担したとして、死刑を言い渡されたが、恩赦によりロンドン塔で3年間幽閉となる。当時の貴族の派手な服装ではなく、シンプルな黒の服。寒い監獄なので、毛皮のついた厚い上着を着ている。煙突から入ってきて彼のペットとなった猫も一緒。伸ばしたままの髪も、とても自然で好きな肖像画です。

エリザベス一世は、独身で過ごしましたが、全然男性に興味がなかった訳ではないのです。女王になった頃は、幼馴染みのレスター伯を傍にいつも置き、重用し、ふたりは恋人ではないかとの噂もありましたが、彼は既婚ですし、彼の死ぬまで友情は続きましたが、多分、気心も知れているし、愛情もあったと思いますが、結婚はしていません。。外国の王族からの求婚も数々ありましたが、結婚相手の国に乗っ取られたり、戦争の種になってもいけないので拒み、国内の男性と結婚すると、貴族間の対立が生じる危険があるとの心配から、避けましたので、「バージン・クイーン」と呼ばれていました。でも女王も、なみなみと熱い血の流れる女性なのです。心から愛した男性たちがいました。

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エセックス伯、ロバート・デヴェリュー。 Earl of Essex, Robert Devereux

エセックス伯は、女王よりも30歳以上も若く、明るくハンサムな青年で、女王が61歳の時に宮廷に顔を出して3年後には、女王をすっかり虜にしてしまいます。高い地位を与えられ、アイルランド鎮圧に失敗しても、許して貰ったりと特別扱いされていました。ところが、この恐れを知らぬ若者は女王を軽く見ており、ある時は女王が朝の身支度をしていて、「かつら」をまだ被っていないのを見て、人々に「女王はただの白髪の老人さ」などと言いふらして怒らせたりしています。でも、女王にとっては、かわいい愛する青年だったのです。我慢していましたが、1601年に、女王を廃位させて、スコットランドの王を即位させようとの反乱を公然と起こしたのですから、れっきとした反逆罪です。国民の手前、女王もエセックスを庇うことはできませんでした。

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ロンドン塔内の処刑場であるタワー・グリーン。今はこのようなガラスの記念碑がある。普通はよっぽど高貴な人しかここで処刑されないのですが、彼は女王の愛人でしたから恥をかかせたくないし、ロンドン市民に人気がありましたから、見物人のいないロンドン塔内で行われました。

死刑が決定されると、エセックス伯は女王から貰った指輪を届けさせ、愛の証にこれをくれた程なのですからと許しを乞ったという話も残っています。女王は心から愛していましたので、大変な悲しみだったと思います。でも君主という立場では心のままに振る舞うことはできないのです。エリザベス一世が今も人々に人気があるのは、この人間的なものと権威というものの間の葛藤が、共感や興味を募らせるからではないかと思います。


2010年01月12日

エリザベス一世とロンドン塔 (ロンドン塔5) ElizabethⅠand Tower

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羽根扇を持つエリザベス一世 作者不明 1580~5 1533年生まれなので、50代の女王。
この時代はプロテスタントです。偶像崇拝しませんので、女王の肖像画は、キリスト像やマリア様の代わりで、イコンのように感情など消し去った表情で描かれるのが一般的でしたが、この絵は、より自然に描いてあり、威厳のある王者の貫録たっぷりの豪華な君主で、圧倒されます。


日本では、イギリス王朝の君主としては、現在のエリザベス女王(二世)と共に、数々の映画も作られ、最もよく知られている女王だと思います。1559年から1603年と長い在位で、英国が大英帝国へと進展してゆく基盤を作った偉大な女王です。

ヘンリー八世が亡くなった後、王子がエドワード六世として短期間王位につきますが、その後英国初めての女王が誕生します。長女のメアリーです。この即位のとき、姉の王位簒奪の陰謀をしたとして、エリザベスは捕えられて、ロンドン塔に拘留されています。その時のお話をいたしましょう。

メアリーは母親から受け継いだカソリックでしたが、エリザベスはプロテスタントのアイドルと期待されていましたので、メアリー即位を阻止する陰謀が起きていたのに、自分の知らない所で陰謀者の当事者のようになっていて、疑われたようです。


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「反逆者の門」Traitors' Gate  ここから入る者は二度と生きては出られないと言われている水門(現在は水を抜いてある)。ウエイク・フィールド・タワーの窓から撮る。観光客が恐ろしい話を聞いているところ。

エリザベス王女は3月の雨の日、船で「反逆者の門」から、いやいやロンドン塔入りしました。道すがら冷たい石の上に座り込んでしまいました。「雨に濡れて冷えますから、中にお入りになったほうがよろしいのでは・・・」と衛兵がすすめますと、「ここよりひどい所へ行くのよりも、この方がましです」と答えたそうです。

エリザベス王女は当時20歳でした。閉じ込められたのは、トーマス・モアと同じベル・タワーですが、王女の房は上階で、3人の召使と共におりました。出される食べ物は毒を心配して手をつけず、特別に作らせました。又、狭く健康に良くないので、隣のビーチャム・タワーまでの間の散歩を許可させたりと、「注文の多い囚人」だったようです。現在、この壁つたいの道は「エリザベスの散歩道」と名ずけられています。何度も尋問を受け、拷問を受けた待女もいましたが、メアリーの王位簒奪の証拠が出ませんでした。

2ヶ月後の5月5日、新任の責任者が100人もの青い制服を着た兵隊を連れ、ロンドン塔にやってきました。エリザベス王女は、何事かと驚きました。もしや自分の処刑かもしれない・・・と思ったようです。でも、この大層な兵隊達は、晴れて潔白となったエリザベスをウッドストック宮殿へと護送するためだったのです。

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13歳のエリザベス王女。おでこや顎など、後の肖像画にも面影が残る。


この監獄生活の5年後に姉のメアリーが病死し、エリザベス一世として25歳で即位し、イギリスを強力な国に押し上げました。
母のアン・ブーリンはロンドン塔で処刑されていますし、自分も囚われていた、このロンドン塔は、その後足を踏み入れていません。エリザベス1世にとっては、あまりにも不吉な所だったと思われます。しかし、この厳しい体験から、人々の利益の為に利用されるかもしれない地位であること、自分であって自分の身ではない王位の意味を冷静に理解して、国の発展に努めました。

当時最強のスペインの無敵艦隊を撃破し、大国スペインの没落とイングランドの台頭と転換しアメリカのバージニアを植民地として後の海外遠征の端緒を作り、長年イングランドの北にあって、脅威でもあり融合したかったスコットランドも、エリザベス一世が独身で一生をおくり世継ぎがいないので、彼女の叔母がスコットランド王の妃となっていたので、曾孫がエリザベスの死後、イングランドとスコットランド2国の王となり、その100年後には、スコットランドは完全に連合王国に含まれてしまいます。エリザベス1世の死後も彼女の力が及んでいたと言えるでしょう。

2010年01月11日

トーマス・モア (ロンドン塔4) Sir Thomas More

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トーマス・モア  1477~1535 ホルバイン画

トーマス・モアも、ヘンリー八世によって、ロンドン塔に囚われていた人々のひとりです。
彼は、法律家の息子として生まれ、12歳の時に英国でのキリスト教の最高権威者であり、王の次に位が高いといわれる、モートン大司教の小姓となりましたが、大変賢くて、ユーモアに富み快活で、皆に愛され、大司教も客人に「この小僧はすごい人間になるよ」と言ったそうで、まだ14歳のモアをオックスフォード大学へ行かせました。ここでギリシャ語、ラテン語、フランス語に音楽・・・とすっかり教養をつけ、ロンドンへ戻り法律を学び、エラスムスと出会い、ルネッサンスの新しい息吹を身につけます。でも彼の一番の興味は「神」でした。チャーター・ハウス修道院に住み、修道僧にはなりませんでしたが、ここで法律の研究をしながら、彼らと同じ清貧の生活を4年間しました。素肌に粗い下着をつけ自分を戒めるという習慣は終生続きました。

その後、法律家として大成功し結婚します。実は結婚相手を紹介された時、彼女の妹の方を気に入ったそうですが、姉がそれを知ったら、きっと悲しむだろう、恥に感じるだろうと、姉と結婚したそうです。
しかしこの奥さんは4人の子供を残して亡くなり、その後年上のアリスと結婚しました。彼の家庭生活は、快活なモア夫婦のもと、とても明るく楽しいものだったということです。

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友人で、モアの家に1年間滞在していたホルバインが描いた、モア・ファミリー。
チェルシーに大きな地所を持ち、彼の書いた「ユートピア」のように、畑を作り、エラスムスによると、父親、娘や息子と配偶者たち、11人もの孫に囲まれ、モアは贅沢や批判ではなく、優しさと穏やかさで、大家族をまとめていたそうです。読書と学ぶことを勧めて、お祈りは長かったらしいです。とにかくジョークが多くて、娘が言うには、モア冗談を集めて1冊の本ができるだろうとのことです。

この文化人を、14歳年下のヘンリー八世は、とても気に入っていて、モアの家によく遊びに行ったそうです。ヘンリーも教養のある王でしたので、きっと尊敬していたと思います。息子が書いていますが、ある晩は突然食事前にやってきて、暗くなるまで庭を散歩し、見てみると王は、モアの首に腕をかけていたそうです。1509年のヘンリーの戴冠式には頌詩も作っていますし、王の議会の議員、下院の議長、騎士の叙勲など重要な地位も与えられましたが、「ユートピア」をはじめとして数々の執筆を続けました。「ユートピア」は、まるで未来の共産主義を予見しているかのような理想社会を描いています。

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ベル・タワー。ロンドン塔はまったく信じられないことに、囚人は生活費を払わなければならなかった。モアは1日15シリングで、妻のアリスは服を売ったりして調達したそう。当時の農業労働者の収入が週1シリングだったそうなので、非常に高かった。


王との友情は20年以上長く続き、王の離婚の許可を求めて失敗した大司教兼大法官であったウルジーの失脚後は、1529年大法官Chancellerの地位まで与えられました。大法官は最高裁判官という地位ですが、公正な裁判をし、たとえ婿の裁判時でも、容赦はしなかったそうです。

王のカソリック弾圧は増し、1532年には教会関係者に王の至上権の承認を迫りました。モアは、カソリックのローマ法王が世界中の信者をまとめるのには必要であるという考えでした。勿論、免罪符や賄賂などの堕落した部分もあるのは知っていましたが、王が宗教における首長であるという考えには否定的でした。そこで、彼は大法官の職を辞任しましたが、収入の絶えた生活も、お得意のジョークで「皆で袋を持って物乞いしよう!楽しく、仲良くやろうな」と、家族を励ましていたそうです。彼はお金を慈善の為に寄付してしまってるので、蓄えがなかったのです。

1534年、モアは裁判に呼ばれ、王の至上権を認めませんでしたが、「ローマ法王を否定することはカソリックの団結を弱めてしまうから」という理由は、わざと言いませんでした。なぜなら、それにより、国王の権力が弱まり、反乱が起こったり、市民革命がおこるのを危惧したからです。

ロンドン塔の「ベル・タワー」へおくられたトーマス・モアは、ひとりの忠実な召使と共に暗く湿気の多く寒い監房で、許可された書物、書き物の道具などで、辛い生活もユーモアを忘れず、また修道院でも生活の経験から、最低限の生活も明るく日々を送っていたそうです。祈りは、国王と王国の繁栄を願い、誰も傷つけたくないという気持ちに溢れていました。妻のアリスは、彼に考えを変えるようと頼みますが、「愛するアリス、自宅とこの監房ではどっちが天国に近いか言ってごらん?」と、信念は変えせんでした。楽しみだった読書や執筆も禁止されてゆきますが、彼の部屋の上階には、同じく王の至上権を認めなくて収監されていた、ロチェスター司教のジョン・フィッシャーがおり、こっそり連絡を取り励ましあっていました。

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ジョン・フィッシャー司教。ホルバイン画。生きている聖人のような、このスケッチはすばらしいです。彼はトーマス・モアより先に処刑されました。

1年以上もロンドン塔で過ごした後、最後の裁判が行われ、反逆罪とみなされ、1535年7月6日に、タワー・ヒルで断頭の刑に処せられました。
いつも着ていた粗毛の下着は人々に見られたくないので、娘に形見としてあげ、炭で残された家族の安全と健康を祈った遺書を残し、処刑の前に周囲に集まっている見物人に、自分に対して祈ってくれるように、又この処刑を目撃したことを思い出してくれるようにと頼み、そして「王の忠実な僕として、しかしさらに神の僕として死にます」と告げたと言われます。
彼は、死の瞬間まで快活であり、死刑執行人に、「精神を集中して、恐れずにやってくれ。私の首は短いから、それるとまずいからね」と注文したそうです。

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この斧と台がロンドン塔に陳列されている。斧はチューダー時代のもので、台は1回ずつ新しく作るそうで、これは1747年の最後の処刑に使用されたもの。
モアも同じような道具で処刑されました。


彼の首なしの遺骸はロンドン塔内のセント・ピーター教会に埋葬され、首はロンドン・ブリッジでさらし首にされた後、アリスは貰い受けカンタベリーのセント・ダンスタン教会に埋葬されています。彼の死後400年経った1935年には、フィッシャーと共に聖人に列せられました。

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ロンドン塔の北にある処刑場、タワー・ヒルTower Hillの記念板に見える、モアの名前。フィッシャーの名も見える。ここで125人処刑されています。

トーマス・モアは、興味の尽きない、すばらしい人物だと思います。私の好きなイギリス人のひとりです。

プロフィール

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稲垣由美子(いながきゆみこ)
inagaki@blue-badge.net

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